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『心はこうして創られる』をコメンタールする(1)
さて、しばらく『心はこうして創られる』のコメンタールを書いていきたい。コメンタールというのは法律をどう解釈するかを細かくかいた書籍を意味するのが多分本来の用途だろうが、受験参考書でよく使われている表現は「大学入試数学コメンタール」という使い方だ。こうすれば解る、というコメントを書かく形で、本noteの連載を行っていきたい。コメンタールを詳細につけて本書『心はこうして創られる』を理解の一助としたい。
この本は簡単に書かれている。しかしコメンタールが必要な本でもある。というのは「簡単」に書かれているが、それはあくまである「見方」をしている人にむけて簡単に書いてあるので、世の中で普通に通用している「見方」でみると非常に混乱してしまう。そんな仕掛けが全体にあるので、なかなかピントがあわない。あってしまえが、なんだ、そんなことか、当然だよ、と思えるはずだ。それを目指してしばらく連載したい。
本書は序章が「文学の深さ、心の浅さ」と題されている。そして二部にわかれる。第1部が心の深みという錯覚と題されて、第2部が即興が「心」を創るとなっている。第1部が我々が心の深みをもつのが錯覚だという主張を丁寧に六章にわたって論述したもので、第2部が即興が心を創ると題されて、我々の心はその場その場の即興がつくる、ということをやはり六章にわたって説明している。そして最終章で、自分をつくりなおす、つまり即興的に生きることの意味と楽しさを語っていく。
さて、このわかりやすいが、ものの考え方を根本からひっくり返そうとしているこの本は「文学」の問題から話を始めている。
文学を読むのが好きな人は多い。そして自分が読んだ文学についてさまざまな解釈を語る。おなじようなことは映画でもアニメでもあるだろう。解釈を書き連ねることは楽しいし、その解釈を読む喜びもある。だが解釈をするのは文学研究者だけではない。われわれが小説を読むという行為は読んでいるときにその場その場で解釈をする行為なのだ、と著者のニック・チェイターは言う。例としてトルストイの小説『アンナ・カレリーナ』が提示される。主人公であるアンナがモスクワ郊外の駅で列車の下に身を投げる。それはなぜなのか?本当に死ぬつもりだったのか。
なぜアンナは自殺をしようとしたのか?これに答える方法は二つあるとする。一つは自殺の動機が「隠された深み」にあるとしてそれを暴き出す立場。フロイトに始まり精神分析が得意なところだし、一部の社会学者も様々な動機をみつけるだろうし、心理学者は神経科学者なら心拍数や動向の拡大やら脳内の血流と言った例をあげるだろう。それでも解らない。それは「人間の心の隠された深み」の解明に失敗しているからだ、とする。これはまあ世の中の思考の王道であり、教育から政治からあらゆる分野において行動を決定する原因を人間の心の隠された深みに求めている。
だがこの本はこの一般的なアプローチと真逆である。心には隠された深みがあるとはまったく思わないという立場の本なのだ。我々はトルストイの執筆した小説が描き出した、つまりアンナ達の劇を創作したものを読んでいて、そこに別の世界、アンナの生きている世界を感じている。トルストイの小説を読むときに、トルストイが創造した世界が存在していると感じる。その世界は小説を読む前には存在していない。
つまり心理学で言う内観「心をのぞき込む」という行為は心の中にある存在を観察しているのでは無くて、「創作している」状態を見ているのだと、チェイターは主張する。思考もこれと同じで、現場で創作しているのだ、と述べるのだ。我々が何か行動を起こしたり考えたときに、それを生み出す内的な深淵や欲望という力は何も無い。言葉とか行動という表面しか無い、というのがチェイターの主張である。むしろ何も無くても延々と創作する力を我々はもっているのではないか?それが本書のタイトルのThe Mind is Flatの表現していることである。
さて、これがチェイターの主張であるが、この考えによると心は究極の即興家であって、「行動を生み出し、その行動を説明するための信念や欲望をもすばらしく流暢に創作してしまう。(14p)」これを即興する心と呼ぶことにする、とチェイターは述べる。
さて、ここでこうした議論の基本的な概念であり、本書では早い段階では導入されていない二つの考え方を補助線として導入しておこう。それはrepresentationとperformanceという二つの概念である。
representationはやっかいな言葉である。
representative democracy
政治で代議士をRepresentativeという。これは政治的代表権を意味していて、市民の声、意見、視点を公共政策の決定過程に「反映represent」させる活動が代議士の仕事とする。representative democracyといえば、選挙で選ばれた代議士が選挙民の意志を選挙民にかわって代弁して行動(議会で一票を投じる)民主主義ということである。
Mental representationという表現もある。これは認知科学の理論的構成要素である。それによれば、認知状態や認知過程は、ある種の情報を持つ構造(表象)の出現、変換、(心/脳への)貯蔵によって構成される。これをinformation-bearing structures情報支持構造とよび、これを representations と言い換えて使うことも多い。つまり表現行為の背後には何か深遠なことがあり、それについて表現している(representation)が我々の行動だ、という考えである。
この行動はその場その場の即興活動である。だが、この心の即興は、思考や行動に一貫性を持たせて、前の行動とできるだけ食い違わないように参照したり再解釈をして行動をしている。これはあたかも裁判官が膨大に増える判例集を参照しながら裁判で人を裁くような活動だという。つまり心の秘密は心の中に深く隠された深みにあるのではなく、「過去というテーマのもとに現在という即興曲を奏でる」おそるべき創作能力にあるのだ、とチェイターは主張する。
さて、『心はこうして創られる』は第1部で、心の深淵に信念、欲望、希望、恐怖があると思うのは虚構だということを心理学的な実験を紹介して説明していく。心についての世間一般のストーリーはちょっと直せばいいというものではなくて破棄するものだ、と述べる。全部でたらめだと主張する。つまり無意識なんかない、というわけだ。representationの前提がある哲学、心理学、精神分析、人工知能研究、神経科学はことごとく間違いだと述べていく。内観も間違いだ、内面からこころや経験を探ろうという一部の現象学も間違いだととことん切って捨てる。
第2部では脳が即興的に活動していることを様々な例をつかって示している。
ここで大事な概念はperformanceである。
ここでチェイターはチャーリー・パーカーを例に出す。脳は創造的に即興演奏をしている。過去の近くや経験があるにしても、現在の我々の思考はそこから新しい思考を作り出している。脳は知覚して夢をみて会話をする。それは創造性の表現つまりperformanceそのものなのだ。
もちろん訓練をしていないアマチュアではチャーリー・パーカーのように演奏はできない。自由に演奏できるまでは非常に長い練習時間がいる。十分な記憶の痕跡を頭の中に敷き詰めて、思考や行動を行うつまりperformする。そして個々人がユニークはパフォーマンスを行う。一歩一歩行動をあたらしく再プログラムしていく。(21p)
さて、チェイターのような発想がどこから生まれてきたのか。彼は生物の神経細胞のネットワーク上の結合がパワフルな計算機械になるという、脳を生物学的な計算機械とみるところからこのアイデアは生まれたという。このようなコンピュータのイメージは決して新しいものではなく、コネクショニズムとして認知科学において知られており、人工的な神経ネットワーク(「ニューラルネットワーク」または「ニューラルネット」とも呼ばれる)を使ってコンピュータを創ろうとしてきた。ニューラルネットワークは、多数のユニット(神経細胞)とユニット間の結合の強さを表す重みで構成される脳の単純化されたモデルである。この重みは、ある神経細胞と別の神経細胞をつなぐシナプスの効果をモデル化したものである。この種のモデルの実験では、顔認識、読書、簡単な文法構造の検出などのスキルを学習する能力が実証されている。
我々が普通にもっているコンピュータのイメージは「心とは記号言語を処理するデジタル・コンピュータのようなものである」というもので、コネクショニズムのパラダイムが古典的コンピュータの概念をどのように乗り越えていくのか、あるいは乗り越えているのかが本書の大きなテーマである。
そしてチェイターは、いまよく言われているいわゆる「深層ニューラルネット」というコネクショニスト的な計算方式(デジタル計算機上でコネクショニスト的な計算を実行する方法の一つ)でディープラーニング(深層学習)とも呼ばれる、が知的な学習機会を作り上げることを目指す一大プロジェクトが破竹の勢いで進んでいる(21p)、と筆を進める。
さて、ここまでどうだろうか?人間の即興能力つまりはパフォーマンス能力に注目して、それを実行するコネクショニストコンピュータのイメージを固め、デジタルコンピュータでありながらコネクショニスト的な動きをするディープラーニングに注目し、何かと意志とか思いを実行しているというrepresentationの世界観を否定して、その場その場で即興的にしかし創造的に行動するパフォーマンスの言葉を深層学習の動きに当てはめていく。
このような思索方法についての哲学的な議論を次回は徹底して行うが、ここ21pまでで、かなりのことは解ったはずだ。我々は環境とのインタラクションをニューラルネットワークで処理をして、その場その場で創造的なパフォーマンスをおこなって、生きている。かつては行動の背後に意味が隠されていて、行動はそれを表現representationしていると思っていた。だがこの考えは間違っている。(第1章から第6章にかけてどのように間違っていたかが説明されていく。)間違っていたとすれば、我々は世界をどのように認識しているのか?それは環境とのインタラクションをニューラルネットワークで処理をして即興で活動をして世界を創造している。この仕組みを強化するディープラーニングの登場はいままでとは違う可能性を即興する脳にあたえてくれるだろう、というのがここまでの話のパラフレーズである。
さて、次回はこの考えをチェイター自身が受け入れることが難しかった話と、この問題を昔から研究してきた哲学者達の話をしたい。いろんな問題が議論されてきている。そうした哲学的検討をしないから、いまの人工知能論は意味の無い議論をしているのだ、という話も次回はしてみたい。
(この項 完)