the taste of tea 4 かすかなる感じ
心身を鍛えることの第一歩は、感受性を鋭敏にさせることである。
そのためには、特に、ある世界を作って、そこに引き入れ、そこに浸り、それを味わい尽くさなければならない。
これが教育であり、茶道の練習である。
結局、そのある世界とは、茶室のことである。
細かいところまで、よく気づかされることができるのは、大きい広い、散漫に散らかった部屋ではいけない。
立居振舞のために動く風も、感じるような小さな部屋でなければならない。
珠光は、今までの大きな部屋を縮めて、はじめて四畳半を作った。
それは、心を磨くと言うことに気づいた、最も大切なことだったと思う。
紹鴎は、この、規範にのっとって、四畳半を作り、さらに部屋の中の趣きを簡単にして、この「※草の座敷」をほめたたえた。※草の座敷 日常の座敷
利休は、師の紹鴎と相談して、さらにこれをまた、2畳半に縮小した。
これはその一面に、華麗な書院式の装飾をすることができないように、知足安分の生活を可能にするために、工夫したのだと思うが、心の修練と言う面から考えても、このようにしなければならなかったのだ。
「茶は台子を根本とすることなれども、心の行くのは小座敷である。」(南方録)
と利休が言っているのは、本当にもっともなことだと思う。
また、茶室を普通北向きにして、
南の光線を避けて、
いくらか薄暗い部屋にするのも、
静の境地を作ろうとするためである
こういう工夫によって、
作り上げられた部屋の中で修練するにあたって、
最も都合よく、また最も重い役目をするものは、
「かすかなる感じ」である。
静かなる境地に、六根(※人間に具わっている6つの感覚器官)、
眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻は(嗅覚)、舌は(味覚)、身は(触覚)意(意識)
の微妙な活動が、いとなまれる時、
心の世界の、いまだかつて開いたことのない部分の門が開かれる。
その中で、耳の力がもっとも強い。
主人は、客の一挙一動から、
出る音に心の耳をすまして、
客は、主人の働きから出る音に、心の耳を洗う。
そうすると、お茶にはさまざまな響きがある。
客の来着を知らせる板の音は、客が主人の心に響す、第一の音である。
これを聞いた主人が、出迎えるにあたって、
手水鉢の水を、改めようとさっと移す水の音は、これから始まる【馳走】の最初の音である。
路地の飛び石を渡れば、下駄の音がする。
南方録に
「路地の出入りに下駄を履くこと、紹鴎からの決まりである。
草木の露深いところを往来するためだ。この音で器用で巧みな人とそうでない人を楽に、よく理解することができる」とあり、
また、
「耳ざわりでないように、またまるで音を立てず歩くようでもなく、
穏やかで、無心になるのが、巧みな者と知っておくのがいい。
道理を悟っている人こそ、※批判するのは難しい」と言っている。
こうなると、下駄の音もなかなか難しくなる。
しかしこれもまた、【脚下照顧】(きゃっかしょうこ、禅の言葉で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。)の最初で
足下に心を置く、よい習慣も自ら養われる。
つくばいで手水を使う音の清々しさと、
手を洗い終わって立ち上がる時に出る、下駄の音とは、次客への合図となるので、ただ単に主人へ響かせるだけではない。
やがて席入りのために戸の音がする。
畳をさわる音は、その人の品位を偲ばせる。
さらに、客自身の心を落ち着かせる。
客一同が、入席し終わるまで、
その動作から出る響きが続いて、主人の心に通うので、
もし水屋に端座してこれを聞けば、壁をへだてて、客の一姿一態を心に見るだけではない。
その響きから、客の心持ちまで想像することができる。
また主人が作法の間に工夫して出す、
さまざまな音は、皆自然をしのばせて、かすかなる音に深い意味を添えている。
すなわち、茶碗に組み入れる水の音を、かけい(竹の桶)の音に通わせて、
茶釜に谷川のせせらぎをしのばせ、身分低い者が、斧の音をひびかずなど、山里の趣きを撮り集めて、静かな心持ちに奥ゆかしい風情を添える。
これらの音の背景として、終始一貫して、釜の湯の煮える音である。
通常これを「松風」と言っている。
この松風は、音楽の音とは違い、
旋律の影響を受けていないので、静寂の趣きを一層深くし、
落ち着いて聞いていると、
心を大森林の奥、奥深い谷の底まで、
心が行くようなそんな気がする。
太古のお湯に、静かな中にもその奥ゆかしい趣きを増すものは、
松に当たる風の音と谷川の音である。
これを四畳半の部屋に移して、この趣きをしのばせるのは実に、茶の心の力である。
このように心の耳を澄ましてみれば
かすかなる感じは、かすかなる感じではなくなってくる。
そのかすかなる感じの彼方に続く大きな重い意義の世界が開かれてくる。
お経の「観基音声皆得特解脱」という「観音様の心」とはこのことである。
ある日、奕堂(エキドウ)和尚は 殷々と(いんいんと。大きな音がするさま)とひびく夜明けの鐘の音に心の耳をすませて、
禅定という瞑想状態から起きて、鐘をついたのは誰か、聞いた。
従っている僧侶は、それが、新参者の一修行僧だと返答した。
そこで、奕堂(エキドウ)和尚はどんな気持ちで鐘をついたのか?」と聞いた。
修行僧は、「別にこれ、という気持ちもなく、ただ、鐘をつきました」と答えた。
「いやそうではないだろう。何か心に思っていただろう?だからこそ、誠に尊い音であったぞ」と言われた。
「別にこれと言う気持ちはないですが、ただ、故郷の師匠が、鐘をつくときは、鐘を仏さまと思って、そこにそれだけの心の慎みを忘れてはならない、といつもいましめてくださったことを思い出して、鐘を仏様とおもい尊敬して礼拝しながらついただけでございます。」と答えた。
奕堂(エキドウ)和尚はしみじみとその心がけを褒め、
「終生、全てにおいて、今朝の心を忘れるなよ」と忠告をした。
この修行僧こそ、のちの、森田悟由大禅師(永平寺)だった。
毎朝、毎夕の慣れてつく鐘の一音にさえ、
それほどまで、敬虔の願いをこめた、古人の心遣いはたいそう素晴らしいものではないだろうか。
このように音によって心が澄み渡ってくると、心の窓である眼には、真実の趣きが映る。
夜明けの露地では、かすかなる、消え残ったあかり(残燈)が心を照らす。
この残燈に気をつけなさい、と教えられているのは、露地に組み合わされた、光の具合であって、油皿の置き方や、油の残り加減のことではない。
秀吉が、夜明けの茶会に招かれて、
露地に入ったとき、その従臣をふりかえり、
「あの残燈はどのように?」と言った。
従臣は、「あかりをかかげよ」、という命令と間違って、火の加減を変えた。
これを見た秀吉は「もう残燈の趣きはなくなってしまった」と嘆いた。
悲しいけれど、従臣の心の目が暗かったのだろう。点茶の間、主人の姿に変化があると気づいて、
また、手前(作法)に
序・破・急(舞楽能楽の構成形式。全曲を序・破・急の三部分に分ける。曲や舞の進行の速さの変化。)の呼吸がある、と気がつくまでに、
心の眼が開けてくると、
心を込めた、主人の飾り方、これに含まれた意義を、残る隙もなく、自分の心の鏡にうつすことができるようになる。
また、一物に一礼する、自分の立ち位置にも気づき、
受け取ったものは、出されたように返し、拝見のため、取り上げられたものは、
再び、元の通りに置くことが知らず、知らずの間にできるようになって来る。
また主人と客、対するべき決まった位置に座り、
大切な位置を奪ったり、通り口をふさいだり、ていねいすぎて不快を与えることもなくなる。
しだれざくらの盛りに、
咲く木の下に、花入を置いて、眺めた秀吉の心を、
間違えて受け取り、その花を切って、面白みをなくしてしまった
家臣の何某の働きを
痛ましいと思うと共に、
雪の朝、紹鴎が床に花入ればかりを置くのをみて
「雪が降れば、冬ごもりをする草も木も、春には知ることのできない花を咲かせる」(紀貫之)
という古い歌を思い出して、
本当に、この花に対しては、※生きている余分な花がないわけだ、
と感じた客の心を想像することができれば、
利休が大晦日に、枯れたすすきを刈って、春を待つ心を表し、
雪の日に紅梅を生けて、
「深雪裡一枝開」
の味わいをしのばせるなど、
言い知れない、優れた味を味わう気持ちにもなれる。
以上、
視ること聴くことのほかに、鼻に香り、舌に味と、それぞれの感覚の修練が加わる。
こうして、養成された理知は
単に茶の味わいの上で
必要なものばかりではなく、
人生を豊かにさせる根拠である。
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