The taste of tea 12 真の生活
【和敬清寂】を身につけ、【精行倹徳】の燈を得て、
さらに整え高めながら、「わび茶」の道を歩いていく時、
名目だけの稽古から、生活の真意にうつっていき、
【賓主応接】の礼儀、【彼此談論】の和合は【法喜禅悦】の求道心を好み、【感謝報恩】感謝して恩返しをしようという気持ちになり、それを続け、ここに飾らない生活が営まれる。
正しい構えの体を、清潔な衣服でおおうことによって、端正な姿が得られるので、衣服よりもまず、その構えを省みる時に自分の醜い姿をそのままにして、いたずらに流行を追って、美しい衣服をまとって、そのいやしさを包み隠そうとする気持ちにはならない。
材料は清潔であればよく、これを縫い上げる時のひと針ひと針に思いがこもったものをとても尊いと思えば、家族の心づくしがこもった衣服が嬉しく、温かく感じる。
広大で華麗な家よりも、清く快く住める小さな家で、月の鏡に一家団欒の影を映して、軒の玉水の音を終夜楽しく聴く喜びを分かちあう。身にふさわしくない物を置くところもないが、これを貯めておくわずらいもなく、四季折々の花のひと枝を愛し、自然の清く美しい教えに導かれ、部屋は広くないが、和楽の風にそよげば、夏も涼しく、夜の寝間着はもし薄くても、お互いが思う心の情が厚いので、冬も暖かに、家族の勧める食膳には、数えるような珍味はないけれど三心(喜心・老心・大心)の【敬】を込めて作ることを思えば、
これに宿る自然の恩と人の労力を思い、自分のした善行の思いながらいただくことを忘れてはいけない。
冷めたものには心の温かさを加えて、味が薄いものには濃い思いを添えて、その気持ちを味わう。これらお互いの気持ちに家庭の【和敬清寂】は磨かれて、次第に、清く明るく正しい状況に進んで、上に立つものは慈愛を教え導く事に余念がなく、下に使えるものは信頼し、力を尽くす事に雑念がなくなり、混じりけのない真の生活に入るのである。
こういう生活は、経済上の打算によって得られるものではない。自分の目を外側の生活から、内側に向かわさせる事によってだけ、体験体得できるのである。
まず自分の姿に目をつけなければならない。
花紅葉(はでな世界観)に憧れた附和雷同(他人の意見に同調する事)の生活から離れて、静かに「雪の間の春」を見なければいけない。北条泰時の言葉に「人、貧しい時はものの善悪もよくわかり、正しい道を行けるが金持ちになってからは奢って、知恵の鏡も失い、人の事をとやかくいうようになる。仏様は、これを悟っていて、人の富や身分を祈ってもだいたいかなわないのはこの言われだと覚えておくがいい」と。
貧しければ、天のぶを楽しんで清廉の境地のすみ、富めば、孔子の「礼を好むの境地」に移ることができる。ここに真実の生活がある。
北条氏が推奨した、倹素な生活から、どれだけ尊い、国民性が養成されたか、に思い至るとき、ただ輸入文化を鵜呑みにして、外側の生活の模倣に憧れて、自分の尊さを忘れ果ててしまった、室町時代の愚かな生活をその対照としないではいられない。
外国文化の輸入が、考え方だけでなく、生活様式さえ、混乱させたとき、この「花紅葉」のただ美しいだけというところから離れて、私たちの国の古えから生まれ育ってきた、一つの道にある貴いものに気づいたのが「紹鴎」と「利休」とであった。
従来は風雅(※俗でなく雅で美しい)といい、「さび」という文字で、表そうとしたが、利休は「わび」という言葉で表し、その意義を充実させてこれを大きな声で唱えた。
自分自身に眼の開けている人は周梨般特(※周利槃特は釈迦の弟子・もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられる。)のような愚か者だったとしても少しも疑う点のない人になることができる
物欲の世界から逃れて、何も所有していない境地にたち、貴い心の働きに気づいたならば、一つの事に接し、一つの物に対しても、感謝あり、慈しむ心が動き、言い知れない霊感がわいて、しみじみと生き甲斐があることが感じられる。
一度この感覚を体得できれば、自分の眼の前に展開される森羅万象は歓喜の気持ちに照らされて、全て光明に輝く。
日々の修行は、この気持ちによって恩返しとなり、やがて心身の敬愛になり、人として行うべき深さことを自分のつとめとするまでに至る。
真の生活とは、いいかえれば、このことである。
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