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こどもの眼。

電車の座席に座っているときに、子供たちの集団が乗ってきた。
それぞれの親も一緒で、子供たちは全部で四人。
おそろいの服に、おそろいの帽子。たぶん、制服なのだろう。
年齢的には、五歳か六歳。女の子。
みんなマスクしている。
親たちも四人。マスクしている。で話している。

女の子たちは、無言。
子供が制服を着て、四人もいて、静かだという状況。しかも、表情は読み取れず、目だけ出ている状態。

「……」

非常に物分かりが良さそうに思える。
と、同時に、子供だからといって侮れないということぐらいは知っている。
子供が子供社会の中で、一括りにされつつも、集団の中でそれぞれの主張を通したり、譲ったり、計算したり、苦しんだりしながら、その役割をこなしていく日々にいること。
「子供」は意外に、沢山のことを理解している。
僕の幼少期の記憶は、「勉強」を詰め込まれていない分だけ、状況に対し敏感だったことは覚えている。
ただ、経験と言語の知識量で、気持ちを表現する場合、唐突感がでてしまうということはあるのだけれど、四歳、五歳は既に侮れないのだ。

ということで、目の前の無言の幼児たちに、プレッシャーを感じている。
お母さん連中が、「コロナが」とか「あそこの家で」とか「この前通販で」と次々と会話を繰り出す中で、無言の幼児四人衆。

「……」
「……」
「……」
「……」

僕は、幼児たちの無言と、感情を押し込める視線に敬意を示し、スマホを見るのを止めて、少しだけ姿勢よく座った。



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