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浅香唯さんのライブ、2日間、3公演を観に行って考えていたこと。

浅香唯さんのライブの最中、特に3公演目。
ふと、物凄く、「内省」していることに気づく。
(注・内省=自分の心と向き合い、考え、言動を見つめ直し、気づきを得ることを目的とし、分析すること)

ここに、「なにか」がある。
と、ずっと、気配を感じていて、それは、僕がここ数年、真剣に探していることへのヒントに通じる気がしていた。

ざわざわ。

なにかが、終わってしまった。それは感じていた。だからまた、新たな視点を必要としていた。
なんだか同じようなことを繰り返していても、苦しくなるだけなのだから、それはしない方が良い。
でも、なにをしたらいいのだろうか?

それがいったいなんなのか分からないまま、時間が過ぎていく感じ。気配は「浅香唯」さん。そこに「なにか」がある。
けれど、それはいったい何なのか、まったく分からなかった。
分からないまま、そこを徹底的に掘ることにした。

思考より先に、体験がある。
元気になること。
解放されること。
心が震えること。

自由について。時間の蓄積。現在の出来事。

僕が物語を書いてきて、「ああ、物語を書いている間は救われる」との立ち位置を確保した状態があり、残された時間の中で、より「幸せに生きる」ためには、ただ、お茶を濁してばかりいても、どうしようもないな。と、そこで、一度停止する。

もう、恋愛でもなく、事件でもなく、暴力でも、パラレルでも、タイムトラベルでも、ホラーでも、モラトリアムでも、ゲームでも、体制批判でもない視点が必要になっていた。そこら辺を、掘っていても心が楽しんでいないのだ。
設定や、展開を分解して、組み立てなおしたって、それが、既に、使い古された装飾であることには変わりがない。ただ、装飾がいけないわけではないので、問題は、「視点」の方なのかもしれないとも考えていた。

その「視点」が僕自身、心から欲しているものであれば、逆に、恋愛でも、事件でも、それらを物語の装飾に使ったって、また違う楽しさを得ることは出来るかもしれない。

浅香唯さんの生ライブの、驚きは、まさに「物語」的な体験で、最初は数年前、近所のイベントで行われたミニライブを目の当たりにした時に、頭がビリビリ痺れて、立ち尽くし、泣いている状態に、僕自身が戸惑った。

なんだこれ、まずい、むちゃくちゃ凄いぞ。と。
けど、実際、その体験が先で、思考は追い付かないままだった。

そして、そこにずっと「なにか」があると、考えていた。
なんだろう?と。

分からないまま、掘り続けていくうちに、僕自身、少しずつ回復していくのを感じていた。
大丈夫、そのまま進んで行けば、必ず、「なにか」が分かると。

コロナウィルスを挟んだ、2021年12月4日。二年ぶりの浅香唯さんの有観客ライブ。
初日は妻も誘った。
妻は、密集と暗闇が苦手なので、心配もしていたのだけれど、ここ数年、ひたすら僕の横で聴き続けた「浅香唯」さんが、目の前に現れた瞬間、妻本人が驚くほど、涙が出たらしい。
手は震え、カバンからハンカチを見つけられず、なんとかティッシュを取り出して、涙を拭った。

「なにか」が、そこに存在する。

エンタメの飽食化。
とにかく、エンタメが山のように溢れた現在。
短期記憶と、長期記憶の話を思い出し、記憶を定着させるには、何度か、繰り返し、反芻(はんすう・何度も思い出すこと)することが必要なのだけれど、昔は、映画、一本を大切に、みんなで語り合いながら見ていたものが、テレビで、「週に一話」に。けれど、まだ、一話ごとに一週間、反芻する時間があったのだけれど、サブスク化してしまった状態になると、ネットフリックス13話を3日とかでぶっ続けで見てしまったりする。そこには、「どうなるのか?」の煽りで引き付けることによって、止められない仕組みもあるのだろうけれど、実際、人の記憶に残るのは、ピーク&エンドの、山場とラストだけなので、漠然とした「面白かった」は残っているのだけれど、その場面、場面は、ほぼ、すぐに忘れ去られる短期記憶になっているため、体感としては、煽られ続けた「ストレス」と「寝不足」の方が勝ってしまっている気がする。
蓄積された名作のセオリーと、新たな視点と、練りこまれた「仕組み」によって、中毒的に「消費」され、また、物凄くよく出来た、素晴らしい作品群たちが、「ストレス」にされてしまう虚しさ。

「商品」として素晴らしいものの到着点として、「底」が見え始めている気がしていた。

じゃあ、どうすればいいのか?

ざわざわ。

たぶん、マニアックで、反芻が出来て、普遍的な渇きを潤すもの。
それはいったい何なのだろうか?

高校生の頃、僕は尾崎豊の歌をよく聴いていた。
何度も聴いて、「とても必要なもの」がそこにある気がして、成長すると失くすんじゃないかと怖がっていた。

けれど、それは通り過ぎていた。
なぜか?
たぶん、「物語」を重ねてきたのだ。
僕が残してきた物語は、僕自身の「渇き」に対して、「ざわざわ」する気配をたどりながら、自由であることを求めてきたもの。

「大人」は、対立軸ではなく、「状態」となった。
ただ、「邪魔はしない」と、だけは心に留めるように決めてもいた。

浅香唯さんは、「アイドル」としての包容力で観客を魅了すると同時に、かなり、高パフォーマーンスを繰り広げる、ロックンローラーでもある。

スマホで移動中、イヤホンから流れる、多くの曲は、アイドル視点からの「励まし」や、「寄り添い」、個人の成長過程で、求めた「正直さ」や、「純粋」、「戸惑い」、ロック的な「反抗」や、「解放」、経験から得た「感謝」や、「喜び」と、30年以上の凝縮が、様々な心の震えを呼び起こす。

そして、「あの頃」から、ずっと「続いている」
その偉大さへの敬意。

浅香唯さんは、勿論、子供の頃から知ってはいるのだけれど、僕にとっては、現在進行形での「興味ある現象」だったりする。


僕自身、現在のエンタメの飽食化に嘆いて、立ち尽くしたいわけではなく、理想としては、「物語における興味を見つけ出し掘り続けていたい」わけで、そこには、もう、競争やら、承認欲求というものは、邪魔であり、ひたすらに、個の、幸福を追求して、ああ、生きてるって楽しいんだなぁって思いたいのだと思う。

それをするための「切符」が必要ではないのが、また現代の新しい現象である気もする。
どこかに媚びへつらう必要もなく、同調する必要もなく、村に手紙とお歳暮を送り続ける必要もないのである。
誰もが、もう、手段は手に入れることが出来ているのだ。
だからこその個の渇きに対するマニアックすぎるほどの興味ある正直な「視点」が大事なのだなぁと。

エンタメ的、「売れ時」な路線のものに興味が無くなってしまったら、物を作る人間は枯れるべきなのか?

たぶん、「なにか」がある。
普遍的で、潤さないといけないなにか?
そこに水脈があり、掘るべし。
それはいったい。

「……」

浅香唯さんのライブを観ながら、ふと、思う。

「大人になってしまった自分に戸惑っていたんだ……」
と。

青春時代は、大人になる怖さがあった。
けれど、大人になってみると、歳を重ねることは、こんなにも想像が出来ないことだったんだと、怖くなったりする。
未来に託そうにも、託しきれるほど、残り時間に余裕を感じることができないと、虚しくなっている。

そんな僕の先で、浅香唯さんが、シャウトする。

「心開いて! ほら行くよ!」

震える。
ひたすら震えて、泣く。

これか……。




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奥田庵 okuda-an
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