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夕焼けは綺麗とよく言われるけれど、僕にも今日はそう見える。


理由を説明しないといけないと考えると憂鬱だった。
理由は「いっぱい」である。

誰にでもわかりやすく、簡潔に、意図が届くように。

そんなことを考えるのも憂鬱だった。
漠然としたモヤッとしたものに、次々と押し寄せる「理由付け」に対し、心が間に合わなくなっている。

そして、生きていて社会でどう振舞えばいいのか「コツ」のようなものを、沢山の視点から、用意され、結局、どうしていいのかなんてわからないまま、「それっぽさ」をでっちあげ、何とかしのぎ、その場をやり過ごす。

そのうち、誰もが「それほど求めてはいない」ことに気づき始める。
やり過ごせていけば、たぶん、それでいい。

なんだか分からないまま、時間は流れ。
なんだか分からないまま、終わったことになる。

全ては「無」である。
基本的には「錯覚」である。

それはもしかして「幸せ?」も錯覚であるし、こうなれば「勝ち」もとりあえずである。

そこに価値を見出すことを自らで「決めて」いい。
と同時に「決めなくて」もいい。

ただただ、「沢山」は押し寄せ、そして終わったことになる。

今更そんなことである。
常に「正解」を答えようとしなくていいのである。

そして、幸せだと思ってもいいのである。
まあ、「いっぱい」を説明することは憂鬱だけれど、なんとかモヤモヤしながらも、やり過ごすことを許そう。

「じゃあ、今日は幸せということで……」
僕は、一人歩道橋から、ビルの間の夕焼けを眺め呟いた。



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奥田庵 okuda-an
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