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蟹川のほとりで②

 さて、蟹川の流れと、その谷間をめぐる景観をしばし追ってみよう。
 蟹川のふたつの流れは、東大久保の一角、現在の新宿文化センター付近で出会うわけだが、きれいに合流していたわけではない。このあたり、明治の頃までは「前田圃」と呼ばれる田圃であり、ふたつの川は、いくつもの水路に枝分かれしながら、広い水田地帯を形作っていた。田原光泰によれば、「地形図では、通常、こうした水路は主要な一本しか描かれないので注意を要する。」という。「谷間の中で複数の流れが造られることは普通であった。こうした場合、一つは主に排水用、他方は灌漑用として使用されていたようである。川沿いに形成された水田は、枝分かれしてゆく支流の最上流まで造られていることが多かった。」「起伏の激しい山の手の地形の中で、人々は数多くの水路を造りながら水田を広げていった。」(前掲書)

 蟹川のふたつの水源は、まるでパ・ド・ドゥを踊るかのように、完全にひとつになるまで、この水田地帯でつかず離れず戯れあっている。幾筋にも分かれた蟹川の流れは、まさに、ナイルデルタのような肥沃な土地、豊かな水田を形作った。このあたりの道筋が今でも不自然に歪んで、決して幾何学的な区割りでないのは、そのせいであろう。複雑に絡み合った幾筋もの蟹川の流れに合わせるように水田が作られ、水田にはさらに新たな水路が引かれた、その産物なのだ。

 新宿文化センターのすぐ裏手の高台には、西向天神社があって、長く急な階段を上がっていくと、うっそうとした森のごとき境内が拡がっている。もともとは、大久保天満宮とも大窪天満宮ともいう名であったようだが、西に向けて眺望が開けているところから、西向天神と呼ばれるようになった。ここからの夕日は江戸の名物だったという。永井荷風は書いている。

 「東都の西郊目黒に夕日ヶ岡というがあり、大久保に西向天神というがある。倶に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。」(「日和下駄」岩波文庫 1986)

西向天神

 荷風は、大久保余丁町の、「断腸亭」と名付けた家に住んでいた。大久保といっても、余丁町は窪を見下ろす台地側で、西向天神社の裏側の方角に位置している。荷風がここに住んでいたのは、明治41年から大正3年くらいまでのことだが、その日々の散歩の中で、幾度となく西向天神を訪れ、夕日を眺めていたのだろう。西向天神は、創立が中世にまで遡るという古い神社であり、「江戸名所図会」にも描かれている。書き入れには、「社壇西に向かふ、ゆゑに西向きといひ、または棗(ナツメ)の天神と称すれども、棗の来由しるべからず。境内すこぶる幽邃あり。」と記されている。絵を眺めてみよう。周囲よりひときわ高い境内があり、お社があって、今も残る長い階段が描かれている。階段を下り、鳥居をくぐると、弁天様を中心にすえた池があるが、その脇に、川が流れているのが見て取れる。池については、大正3年の「東京府豊多摩郡大久保町図」に認めることができるので、少なくとも、大正の初めまでは存在していたのだろう。川は、もちろん、蟹川である。おそらく、太宗寺から来た流れであると考えられるが、川のあたりには田を耕す人々の姿も描かれている。「江戸名所図会」が作られたのは、19世紀半ば、江戸後期の頃であるが、それから、明治そして大正期にいたるまで、西向天神の眼下には蟹川が流れていたわけだ。おそらく、荷風も、蟹川の流れを見ていたことだろう。明治期、このあたりが「前田圃」と呼ばれたのは、西向天神の前の田圃だから、という理由であった。そして、その西側、歌舞伎町から流れてきた蟹川のやや上流、今の明治通りあたりは、新しく開かれた耕地だったが、西向天神の西側、つまり裏側なので、新田裏と呼ばれた。
 西向天神には、実は、太田道灌と紅皿に関する伝説も残されているのだが、それはまた機会を改めて触れることとしたい。

 先ほど触れた「永遠の都」にも、西向天神が登場する。幼稚園からなかなか帰ってこない息子・悠太を探し回っていた母親の初江は、市電の線路沿いに東へと歩き、大久保車庫に出る。この頃、つまり昭和10年代にはすでに暗渠となっていた蟹川沿いに歩いたのである。

 「このあたり人家がまばらで原っぱが多く、物淋しい。市電が急坂をぐーんと気張って登って行く脇に細い道があるのを負けじと登るうち、すぽっと抜け出た広い場所は神社の境内だった。西向天神である。風にあおられた梢が唸りながら無数の真珠のような光を地面に撒き散らしている。錆びた鎖をきしませているブランコのそばに子供が泣いている。水色の水兵服にエプロンはまぎれもなくわが子だった。」(前掲書)

 悠太の幼稚園は、蟹川のさらに下流のほとりにあった高千穂学校幼稚園であり、西向天神までは歩いてほんの数分の距離とはいえ、小暮家に戻る道筋とはちょっとばかり離れている。この日の事件の真相は、小説が進むにつれて、悠太の視点から語られることとなる。
 加賀乙彦より数年早く、大正15年に西向天神のお膝元「天神下」に生まれたのが、いわゆる「愚連隊」として一世を風靡した「安藤組」組長の安藤昇だ。その父親はこの土地で材木屋を営んでいたという。

 「大正十五年五月二十四日、東京新宿の東大久保天神下で生まれた。翌二十五日が天神さまの本祭だから、オレが生まれた二十四日は宵宮であった。
 祭囃子がにぎやかに鳴り響くなか、母親の千恵は二日前から始まった陣痛にウンウンと唸り通しであった。
 母親もつらいだろうが、付き添う祖母も、産婆さんも大変だったろう。祭り好きの祖母文は、
 『おめでたい子だヨ。こんな日に生まれるなんて・・・。きっとにぎやかな子だよ』とはしゃいでいた。
 朝からどんよりと曇っていたが、夕刻からポツリポツリと落ち始めた雨は、祭囃子の音をかき消すかのように次第に激しさを増し、ついには集中豪雨となっていた。
 そして、遠くで鳴っていたはずの雷鳴が大地を揺るがし、天神様の森の白木蓮の大木に落雷したのである。
 我が家は天神様からわずか十五、六メートルしか離れていない。」
                        (安藤昇「不埒一代」祥伝社 2001)
    
 おそらく、安藤家のすぐ目の前にも、蟹川の流れがあったはずである。
 
 さて、ふたつの大きな流れを保ったまま、蟹川は北上し、今の職安通りを越える。この一帯は、かつて「砂利場」と呼ばれていた。というのも、江戸時代には、砂利場御用地、つまりは砂利の採取場であったということで、のちに開墾されて、砂利場跡新田と呼ばれるようになったという。(「新宿区町名誌」2010)
 蟹川の流路は、この界隈でも容易にたどることができる。曲がりくねった道筋が多いのである。ひとつは、区民健康センターの前の道を入っていく流路で、もうひとつは、一本東側の細い路地を入っていく流路だ。こちらの流路は途中で東側に大きく迂回し、さらにもう一度、北側に舵を切る。この流れのすぐ東側はかなり切り立った高台になっていて、階段や坂道の多い地形を描いている。いや、東側が高台になっているという言い方は適切ではない。むしろ、蟹川の流域一帯が広大な窪地であるということだ。

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 「梯子坂」と呼ばれる細く急な坂道がある。この坂道を登りきると、蟹川流域の谷間だけではなく、歌舞伎町の方角まで見渡せるから、かつては蟹川の水源までが一望できたことであろう。「豊多摩郡誌」には、「坂道急にして恰も梯子を登るが如し故に名づく。」と記されているが、実際、この坂の傾斜度は都内でも一、二を争うほどのものらしい。神田川沿い、芭蕉庵脇の胸突坂のそれを軽く上回るというが、つまり、それは、この蟹川流域が形作る谷間、窪地の深さを物語っていると言えるだろう。この一帯の谷の深さは10メートルにも達し、見上げる台地の高さは、マンションの階数で考えれば、3階以上に相当することとなる。梯子坂から階段の下を見下ろすと、高所恐怖症の人ならば間違いなくめまいがするくらいの高低差がある。

梯子坂

 さて、梯子坂の階段下には、「東宝湯」という銭湯がある。川と銭湯とは親和性が高く、それは、銭湯から出る大量の排水に川が利用されていたためとされているが、それと同じ理屈で、染物屋やクリーニング屋、そして、豆腐屋や印刷所などは、川沿いに建てられることが多いようだ。くねくねとした不自然な道筋に、これらの施設、それも古くから建っているようなものがあれば、そこは暗渠、つまり、かつてその道筋は川であったという可能性が高まるということになる。
 
 蟹川の流れに戻ろう。川は、相変わらずふたつの流れを保ち、大久保通りの手前あたりでとうとうひとつの流れに重なることとなる。川があったころは、当時の仲通り、つまり今の大久保通りは、川の流域を横切るように東西に延びており、河畔では深い坂道となっていた。その後、川の上を通るバイパスが作られ、大久保の谷を北側と南側に分断してしまった。現在ではそちらが大久保通りの本線となっている。現在の大久保通りは、大窪の谷間を見下ろすように伸びているが、その南側の脇から、通りと谷間をつないでいるのが、もともとの仲通りの、現在も残る椎木坂だ。椎木坂について、「豊多摩郡誌」にはこう書かれている。
 
 「戸山學校構内に椎の大木ありて、坂道を隠蔽す、故に此名あり。」

 つまり、大久保通りをはさんだ向かい側に大きな椎の木があって、長く伸びたその枝葉が、坂道までを覆い隠していたということだ。椎の木は、戦前までは存在していたようだが、今はもう姿を消している。

 大久保通りを越えた蟹川は、現在の戸山ハイツの敷地内へと流れ込むことになる。35棟、1万人近い住居者の住む戸山ハイツは、昭和24年に作られた木造住宅を嚆矢として、昭和40年代に建て替えられて高層化され広がった、いわゆるマンモス団地である。それより以前、明治期から戦前にかけては、広大な陸軍用地で、明治7年に陸軍戸山学校が開校され、大正3年に近衛騎兵聯隊が開営、大正10年には、東京陸軍幼年学校、昭和4年には陸軍軍医学校が作られた、複合的な一大軍事拠点であった。加賀乙彦は語っている。

 「家は明治通りに面していて、毎日のように車道の端を兵隊が一列になって通りました。(中略)戦車もよく通りました。すさまじい轟音と共に、地面も揺れる。夏にはよく戦車がうちの前にとまって、隊員が水を飲みに来たものです。」
                 (「東京人」2012年1月号インタビューより)
 
 まさに軍都だったわけだが、さらに時間をさかのぼって江戸時代となると、この広大な敷地は尾張藩徳川家の下屋敷で、戸山荘と呼ばれていた。現在の戸山1丁目から3丁目をすっぽりと包み、その広さはおよそ45ヘクタールというから、実に東京ドーム10個分である。江戸の頃にいくつも存在した大名屋敷の中でも最大級のものであったという。東側には御殿があって、それ以外の敷地は池泉回遊式庭園が造られた。起伏の激しい地形を利用しつつ、茶屋なども配されたという。特に、小田原宿を模したとされる「御町屋」には、本陣や鍛冶屋、米屋などの商店が数十軒立ち並び、実際に、小田原の名産品が店頭に置かれたという。ディズニーランドやハウステンボスなどといった現代のテーマパークの原型であるともいえる。

公園

 この広大な戸山荘に流れ込んだ蟹川は、ここで堰き止められ、長さ650メートルにも及ぶ巨大な池に姿を変えた。池には、琥珀橋などと名づけられた橋も架けられ、龍門の滝などという滝まで造営されたという。
 この滝の風景について、小寺武久が書いている。

 「『龍門の滝』から水が轟音とともにたぎり落ち、岩角にあたってくだけ散った。急流のなかにところどころ出ている石を辛うじて渡り、向かいの岸に登った。」
                    (「尾張藩江戸下屋敷の謎」中公新書)
 
 
 歌舞伎町と太宗寺に水源を抱く蟹川は、戸山荘の外へと流れを進め、ようやく、大久保村を離れることになる。

 戸山荘のすぐ外には、蟹川の流れを見下ろすような高台に穴八幡神社がある。下戸塚研究会が発行した研究誌の中で、安井弘氏は書いている。

 「八幡坂下には駒留橋がかかり、下にかに川が流れていました。駒留橋は江戸の昔、流鏑馬の時、この橋のたもとで馬を揃えたので、その名があります。橋のあった地点は現在の『三朝庵』の入口、向かって右の歩道の辺りでした。三朝庵前の早稲田通りの横断歩道を渡った所に細い路地があります。この道がかに川だったのです。葦の茂るそのあたりから少し上流へ出ると、沢蟹が沢山いました。その先には、まむしがいたので、子供もそこへはあまり行かなかったのです。(中略)この小さな『かに川』も、大雨が降ると、兵隊屋敷の山と、戸塚台地の水を集めて、川の水かさを増し、危険な川と化しました。当時、この川に水が出ると、あたりに半鐘が鳴り渡ったそうです。」
           (「下戸塚 我が町の詩」下戸塚研究会 1976」)

 この界隈の流れについては、馬場孤蝶も書き残している。戦時中に書かれた「明治の東京」で、失われた明治の頃の東京を思い出しているのである。
 
 「牛込の馬場下から、戸塚の方へ行くには、穴八幡の下の狭い坂を上るのであったが、その上り口のところに古称蟹川という小流があって、それに小さい橋がかかっており、その橋を渡って、早稲田大学の方へ行くようになっていた。橋の袂にそば屋があったことを記憶する。」           (明治の東京」 社会思想社 1992)
      
 その後、蟹川は、早稲田高校の敷地を抜け、早稲田大学の大隈講堂のあたりで東側に流れを変えて、現在の早大通りに沿って早稲田鶴巻町を東へ進む。
 大正3年に早稲田鶴巻町で生まれた小菅良孝氏は、明治中頃の鶴巻町と蟹川について書いている。

 「その頃、早稲田鶴巻町周辺の一帯は蟹川など掘り割りをはさんで見渡す限り水田か茗荷畑で、早稲田田圃と言っていた。」(「早稲田田圃」非売品 1983)

 早稲田鶴巻町を抜けた蟹川は、その後、東進を続け、山吹町へと流れ込み、今の江戸川通りを越えたあたりでその流れを北へと向けると、そのまま、神田川へと流れ込んでいた。
 歌舞伎町を水源として東へと向かい、太宗寺を水源とする流路と出会って北上する蟹川の流れは、ここで終わるのである。

神田川

 さて、大久保には、母なる川、蟹川の他にも、小さな川があった。その名を馬尿川とも秣川ともいう。蟹川と同じく神田川に流れ込む支流であるが、こちらは、西大久保を水源としていた。かつては仲通りと呼ばれた大久保通り、ルーテル教会の向かい側に大久保交番があるが、この付近が水源であったようだ。川はそこから北上し、戸山が原を越えて、諏訪町に入ると、そのまま神田川へと注いでいた。いくつかの地図を確認してみると、こちらの川は、小さなドブ川のまま、戦前までは存在していたようだ。
 昭和11年に書かれた林芙美子の短編「稲妻」に、大久保が出てくる。縫子、光子、清子、という、それぞの個性を持つ3人姉妹の生活を描いたものであるが、三女の清子は、下町(下谷)の暮らしを離れ、「山の手」に移り住むのだが、そこが大久保である。
 
 「果物屋のお神さんは、果物屋の路地口に立って、あの白い躑躅の植わった家だから行って御覧なさいと云ってくれた。路地を這入るとほんの一またぎの川があって、板の橋がかかっていた。水は淀んで苔で青くなり、川ぞひの両側の狭い空地には一米ばかりの桃の木や枝を剪りおとしたポプラの木が並んでいた。葉が繁っていて、青い空とよどんだ川の水や、樹木が、清子には膚を刺すような愉しさだった。」   (林芙美子「稲妻」 「林芙美子全集 第三巻」所収 文泉堂 1977)

 川本三郎は「林芙美子の昭和」(新書館 2005)の中で、、この川について、神田川だろう、と推測しているが、「一またぎ」という川幅からして、神田川は考えにくいし、また、わざわざ、大久保、と書いているのに、神田川が出てくるのも不自然だ。川本三郎が同書で書いているように、落合に住んでいた林芙美子は大久保に土地勘があり、「放浪記」にも出てくるくらいである。となると、この川は
馬尿川とも秣川とも呼ばれていた小さな川である可能性が高い。だとすれば、戦後にはこの川も姿を消してしまっていたようだから、林芙美子の描写は非常に貴重なものだと言えよう。

 蟹川に限らず、江戸期から明治期にかけては無数に存在した、東京に流れていた多くの小川は、その姿を消していった。その姿を消してゆく大きな転機は、現在まで2回あった。ひとつは、大正から昭和に移りかわる頃だ。
 
 「大正時代、東京市周辺における急速な住宅地の広がりによって、小さな川ほど、水質の悪化は目立つようになり、小川はいわゆる『下水』とみなされるようになってゆく。それにともなって、さまざまな問題が生まれるようになる。臭気による不快感もさることながら、当時、見過ごすことができなかったのは衛生問題だった。」
            (「『春の小川』はなぜ消えたか」田原光泰 之潮 2011)

 田原によれば、都市化・宅地化が進む東京では水田の数が減少し、農業用水路として活用されていた小川も、その役割を失い、荒廃したまま放置されてしまうことが多かったという。ゴミがたまり、汚水が停滞するなどの衛生問題が発生し、多くの川は、蓋をされただけでなく、その流路を利用して、下水道として利用されることとなる。実際、蟹川の流路の多くの部分は、現在では、第二戸山幹線という下水道となっているのである。
 もちろん、この時期には関東大震災があって、その復興計画と重なっていたことも大きい。急激な都市化と震災の復興計画、東京を流れる多くの小川が、この時期に姿を消している。
 そして、もうひとつは、ずうっと時代を下って、昭和39年の東京オリンピックの時期であった。戦後復興の象徴でもあった東京オリンピックにともなって、大規模な都市整備が行われたが、下水道事業もそのひとつであった。
 蟹川のひとつの水源である太宗寺のすぐ南、新宿御苑を水源とする川がある。その名を渋谷川という。蟹川とはほとんど背中合わせの水源を持つ川であるが、蟹川が北上していく一方、渋谷川は南下していき、表参道を横切って渋谷駅方面へと続いている。この渋谷川は昭和30年代中頃まで地上を流れる川であったが、東京オリンピック開催に合わせて暗渠と化し、地中に姿を消した。何しろ、渋谷川の流域に作られようとしていたのが、オリンピックのメイン会場となる国立競技場だったのである。正確には、外苑西通りと競技場の狭間がその流路であった。
 小林信彦によれば、昭和30年頃、この川に面したところに渥美清のアパートがあったという。映画「男はつらいよ」シリーズが始まるはるか前のことだ。また、斜め前の部屋には、ロカビリーで人気を集めていた歌手の山下敬二郎が住んでいたらしい。その渥美清の部屋を訪れた小林信彦によれば、その時、渥美清はこんなことを言っていたという。

 「ときどき、川の向こうっ側で立ち小便してるやつがいるんだ。がらっとあけて、睨んでやると、小便しながら、『アツミか』なんて言いやがる。怒鳴れなくってね。」
                (「おかしな男 渥美清」ちくま文庫)

 映画さながら、いわゆる「寅さんのアリア」を聴いているようで面白いが、さらに興味深いのは、この描写が、そのまま渋谷川、そして、かつての東京の、町の中を流れる小川の風景を生き生きと描いていることだろう。一軒家なのかアパートなのかはわからないが、川の向こう側の立小便の音が聞こえて、窓を開けると、相手もそれが渥美清だと認識できるだけでなく、さらには、「アツミか」という捨て台詞まで聞こえた、ということだ。狭い渋谷川の両河岸にすきまなく立ち並ぶ古臭い家々、アパートの生活の光景が目に浮かぶ。明治大正の都市化を生き延びた数少ない小川は、戦後、肩身の狭い思いをしながらも、町の中を流れていたのだ。
 ちなみに、渥美清がご近所さんの立小便をにらみつけた場所は、現在では、原宿のキャットストリートと呼ばれる通りになっている。

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 小林信彦はこんなことも書いている。

「芸人アパートの下を流れていた渋谷川は、暗渠になっている。これも、東京オリンピックにともなう町殺しの犠牲の一つであり、現在は索漠とした遊歩道になっている。」

 
 かつて大久保に川が流れていたことなど、今の私たちには想像もつかない。ただ、歌舞伎町を水源とする蟹川の流れが、この土地に大きな窪地を形成し、それが、大久保という地名にもなったということは、長く記憶にとどめておくべきだろう。大久保は、ある時期からは、歌舞伎町という猥雑な土地のエネルギーを受けとめ、さらに、下流へとろ過していく土地となったのかもしれない。
 その流れが地中の奥底へと消えてしまった今でも、蟹川は、大久保の母なる川として、この土地を支配し続けているのである。

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