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岡本綺堂の大久保①

 「その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言を書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ/\路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。目おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。
『この路の悪いところへ……。』と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。『粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅の咲くまでは、江戸の人の足蹈みするところじゃありませんよ。』
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。」

 これは、岡本綺堂による「三浦老人昔話」に収められた「鎧櫃の血」の冒頭である。

岡本綺堂といえば、映画やドラマにもなった「半七捕物帳」があまりにも有名であろう。「半七捕物帳」は、今からおよそ100年前の1917年、つまりは大正6年に、第一作「お文の魂」が発表された。
「半七の前に半七なく、半七の後にも半七なし」などと言われるが、今では当たり前のものとなった捕物帳というジャンルは「半七捕物帳」をもって嚆矢とする。それだけではなく、日本の探偵小説の源流、近くて遠い先祖でもある。江戸川乱歩が、日本最初の探偵小説とも称される「二銭銅貨」を発表するのが1922年、大正11年のことだから、それよりも6年も早く、名探偵である半七を登場させ、江戸市中で起こったあまたの謎を解かせる役割を与えた。
 綺堂は、1872年、明治5年に高輪で生まれた。新聞記者を経て作家となり、新歌舞伎の創作なども手がけた。江戸の研究でも知られ、その該博な知識に裏づけられた「半七捕物帖」は、時代の風俗描写が見事であり、その読みやすい文体もあってか、読み始めてしまうと、ページをめくる手がなかなか止まらない、それくらい面白いのだ。

 半七は、神田三河町に住む岡っ引きで、幕末の文政6年(1823年)に生まれたという。数々の難事件を解決した、まさに和製の、そして、江戸のシャーロック・ホームズなのだ。ホームズにはその記録役であるワトソンがいるが、半七親分にも、ワトソン役がいた。明治20年代に新聞記者をしていた「私」である。半七が亡くなったのは、81歳の時、明治37年(1904年)の秋というから、「私」は、半七が還暦を過ぎた頃に出会い、長年、半七老人の自宅に足を運び、多くの手柄話を聞かせてもらって、その後、発表を始めたということになる。

 ある日、「私」が、いつものように半七に話を聞こうと赤坂の半七の家に出向いてみると、そこには見知らぬ老人がいた。それが、「私」と三浦老人との出会いであった。三浦老人は、半七老人よりもさらに10歳ほど年嵩と思われ、かつては、下谷の大家さんをしていたという。

 「江戸時代にはなにかの裁判沙汰があれば、かならずその町内の家主が関係することになっているので、岡っ引を勤めていた半七老人とはまったく縁のない商売ではなかった。ことに神田と下谷とは土地つゞきでもあるので、半七老人は特にこの三浦老人と親しくしていたらしかった。そうして、維新以後の今日まで交際をつゞけているのであった。」
                       (前掲書)

 老人は、とうに隠居して、今は、郊外の大久保に住んでいるという。
 すると、「私」に向かって、半七老人は次のように言う。

「『あなたは年寄りのむかし話を聴くのがお好きだが、おひまがあったら今度この三浦さんをたずねて御覧なさい。この人はなか/\面白い話を知っています。わたくしのお話はいつでも十手や捕縄の世界にきまっていますけれども、こちらの方は領分がひろいから、色々の変った世界のお話を聴かせてくれますよ。』」  (前掲書)

 三浦老人に興味を抱いた「私」は、数日後、大久保の三浦老人を訪ねることになった。

「その次の日曜日は陰っていた。底冷えのする日で、なんだか雪でも運び出して来そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町の家を出て、大久保百人町まで人車に乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を幾たびか曲りまわって、よう/\に杉の生垣のある家を探しあてると、三浦老人は自身に玄関まで出て来た。」

   (「三浦老人昔話」「大衆文学大系7 岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集」講談社 1971)

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 三浦老人は岡っ引きではなく長屋の家主であるから、半七親分のような犯罪や謎解き話が出てくるわけではない。ただ、大家として多くの人間とつきあってきたことから、江戸の市井の男女の機微や庶民の暮らしについての話や、ぞっとするような話も見聞きしている。そんな話を聞き取ったというのが、「三浦老人昔話」なのである。

 「私」は、その後も大久保に足を運ぶことになるのであるが、冒頭の文章は、「私」が二回目に大久保を訪れたときの描写だ。今井金吾は、「半七は実在した」の中で、「私」が三浦老人に出会ったのは明治27年頃と推定しているが、つまり、「三浦老人昔話」は、その頃の大久保を描いているということになる。大久保は、この頃、まだ東京市に含まれず、東京の郊外に位置する静かな村だった。
 
 大久保の描写は、「私」が三浦老人宅を訪れるたびに登場する。

 「『躑躅がさいたら又おいでなさい。』
 こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸の藤、それから堀切の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざ/\上ってくる見物もなか/\多かった。藤や菖蒲は単にその風趣を賞するだけであったが、躑躅には色々の人形細工がこしらえてあるので、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。
 ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の人車が列んでいて、つい眼のさきの躑躅園まで客を送って行こうと、うるさいほどに勧めている。茶屋の姐さんは呼ぶ、車夫は附き纏う、そのそう/″\しい混雑のなかを早々に通りぬけて、つゝじ園のつゞいている小道を途中から横にきれて、おなじみの杉の生垣のまえまで来るあいだに、私はつゝじのかんざしをさしている女たちに幾たびも逢った。」

 ここで「停車場」というのは、中央線の大久保駅であろう。もっとも、その頃は甲武鉄道と呼ばれており、あくまでも民営の鉄道であった。甲武というのは、甲斐の国と武蔵の国とを結ぶという意味であり、明治22年(1889)に、新宿と立川とを結ぶ路線として開通し、すぐに八王子まで路線は伸びた。当時は、新宿ー八王子間を1時間15分ほど、1日4往復だったという。車両は7両連結で、車の中には畳が敷いてあった。そして、大久保駅が開業したのが明治28年(1895)というから、まさに、「私」が三浦老人の家を初めて訪れた翌年であり、そのため、数度目の訪問で、「停車場」という言葉が出てきたのだろう。ちなみに、麹町に住んでいた「私」が中央線で大久保に行くには、四ツ谷駅から乗ったものと思われる。四ツ谷駅も、大久保駅と同時期に開業している。それまで、人力車で大久保に通っていた「私」の交通手段に変化が現れたのだ。

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 さて、高架上にある現在の大久保駅とは異なり、その頃の線路は地上を走っていて、当然ながら一帯は武蔵野そのものの田園風景であった。鉄道国有法によって、甲武鉄道が国有化されたのは、明治39年になってからである。

 冒頭の文章もそうだが、頻繁に描かれているのが躑躅である。大久保は躑躅の名所として知られるが、その歴史は江戸時代に遡る。
 大久保の百人町という地名は、この土地に大久保百人組の組屋敷があったことに由来している。牛込の根来組、青山の甲賀組や青山組と並び、大久保には伊賀組があったのだが、伊賀とは、忍者で有名なあの伊賀者で、鉄砲百人組を組織しており、徳川家入府の際にその警護のため、ともに江戸に入ったという。頭領は、2代目の服部半蔵こと正成である。その後、伊賀組は、北条氏の残党などの侵入を防ぐために、そのまま江戸の西側、つまり、現在の新宿付近で警護の任務についた。そして、大久保に陣屋敷を持つことを許された。彼らはもちろんのこと鉄砲の訓練にも普段から精を出して、何かあれば出撃できる準備はしていたものの、江戸時代も時を重ねると戦も姿を消し、平穏な世の中になってしまった。当然、食っていけなくなる。そこで、躑躅の栽培を内職にして糊口をしのいだというのが、大久保の躑躅の始まりだ。

 「おそらく彼らの生態からして、集団的・組織的にそれを行ったのであろう、みるみるうちに成長して、幕末のころには、つつじ栽培の元祖と自他ともに認じていた染井をおさえて、江戸第一のつつじの名所にのしあがっていった。」
          (川添登「東京の原風景」1979 日本放送出版協会)

 大久保の躑躅は、「江戸名所図会」にも「大久保の映山紅(きりしまつつじ)」として描かれている。絵の添え文には、
 「大久保の映山紅は弥生の末を盛とす。長丈余のもの数株ありて、其紅艶を愛するの輩とくに群遊す。花形微少といへども、叢り開て枝茎を蔽す。さらに満庭紅を灌が如く、夕陽に映じて錦繍の林をなす。此辺の壮観なるべし。」
とある。

 明治45年に百人町で生まれたハンガリー文学者の徳永康元によれば、

 「この躑躅園は酒や三絃の園内持ち込みを禁じたので、家族向きの遊覧地として一時はなかなかの人気があり、亀戸の藤や堀切の菖蒲と並ぶ東京名所だったらしい。」
  (「大久保の七十年」「地図で見る新宿区の移り変わり」新宿区教育委員会 1984)
 
 明治に入ると、百人組は士族となった。躑躅園の敷地の多くは百姓に払い下げられてしまい、木が抜かれてしまうなどして、園は廃れていった。そこで、明治6年くらいから、有志の者があつまり、共同経営という形で躑躅園の再興に成功した。

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 この頃の躑躅園について、徳永康元はこうも書いている。

 「この躑躅園は酒や三絃の園内持ち込みを禁じたので、家族向きの遊覧地として一時はなかなかの人気があり、亀戸の藤や堀切の菖蒲と並ぶ東京名所だったらしい。」
  (「大久保の七十年」「地図で見る新宿区の移り変わり」新宿区教育委員会 1984)

 また、菊池勇夫によれば、

「大久保駅から大久保躑躅園に向かう現大久保通りのまっすぐな道は桜並木のアーチになっており、その通りに面して躑躅園や茶屋がならび、客引きや人力車の喧騒とともに遊覧客でにぎわったという。」
     (「大久保の躑躅」「東京新宿学研究」平成16年 に所収)

 ところが、日清戦争が終わり、明治30年代に入る頃から、それまで無料だった地代が有料となり、次第に躑躅園の経営は難しくなっていった。さらには、明治35年に開演した日比谷公園に多くの躑躅を移植してしまい、園はますます荒廃していく。そして、大正10年、躑躅園はついに閉園してしまうのである。つまり、「私」が三浦老人を訪ねていた明治20年代の終りは、躑躅園の最後の盛りの頃であったのである。
 今では、躑躅は、新宿区の花と定められ、大久保小学校では、校歌やオリジナルの唱歌でも躑躅が歌われる。
 
  躑躅園はいくつか存在して、今の大久保駅と新大久保駅の間、大久保通りから北側の一帯に、広がっていたようだが、三浦老人の家は、当時、存在した「日の出園」と、「萬花園」というふたつの躑躅園の間あたりだったのではないか、と、今井金吾は書いている。
           (「半七は存在した」河出書房 1989)

 そして、ここからがまた面白いところなのだが、明治20年代に江戸の話を聞きとっていた「私」の近況が挿入されるのだ。何と、関東大震災の翌年の大正13年、「私」は、大久保に移り住んできたというのだ。つまりは、三浦老人の昔話が展開する江戸時代、そして、「私」が大久保でそれを聞き取っていた明治20年代、そして、聞き取った昔話を発表している大正13年、という3つの時間が平行して描かれるようになるのだ。大久保の描写に関して言えば、明治20年代の終わりと、震災直後の大正、の、およそ30年の時を隔てた、ふたつの時代が交錯することにもなる。

 「これも何かの因縁かも知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡々こゝに老人の家をたずねたことは、読者もよく知っている筈である。
 老人は已にこの世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい。そのころ繁昌した躑躅園は十余年前から廃れてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一軒の大きい植木屋が残っているが、それはむかしの躑躅園の一つであるということを土地の人から聞かされた。してみると、三浦老人の旧宅もこゝから余り遠いところではなかった筈であるが、今日ではまるで見当が付かなくなった。老人の歿後、わたしは滅多にこの辺へ足を向けたことがないので、こゝらの土地がいつの間にどう変ったのか些ともわからない。老人の宅はむかしの百人組同心の組屋敷を修繕したもので、そこには杉の生垣に囲まれた家が幾軒もつゞいていたのを明かに記憶しているが、今日その番地の辺をたずねても杉の生垣などは一向に見あたらない。あたりにはすべて当世風の新しい住宅や商店ばかりが建ちつゞいている。町が発展するにしたがって、それらの古い建物はだん/\に取毀されてしまったのであろう。
 昔話――それを語った人も、その人の家も、みな此世から消え失せてしまって、それを聴いていた其当時の青年が今やこゝに移り住むことになったのである。俯仰今昔の感に堪えないとはまったく此事で、この物語の原稿をかきながらも、わたしは時々にペンを休めて色々の追憶に耽ることがある。むかしの名残で、今でもこゝらには躑躅が多い。わたしの庭にも沢山に咲いている。その紅い花が雨にぬれているのを眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。」

 「思い出すと、そのころの大久保辺はひどく寂しかった。躑躅のひと盛りを過ぎると、まるで火の消えたように鎮まり返って、唯やかましく聞えるのはそこらの田に啼く蛙の声ばかりであった。往来のまん中にも大きな蛇が蜿くっていて、わたしは時々におどろかされたことを記憶している。幾度もいうようであるが、まったくこゝらは著しく変った。
 それでも幾分か昔のおもかげが残っていて、今でも比較的に広い庭園や空地を持っている家では、一種の慰み半分に小さい野菜畑などを作って素人園芸を楽しんでいるのも少くない。わたしの家のあき地にも唐もろこしを栽えてあって、このごろはよほど伸びた長い葉があさ風に青く乱れているのも、又おのずからなる野趣がないでもない。三浦老人の旧宅にも唐蜀黍が栽えてあって、秋の初めにたずねてゆくと、老人はその出来のいゝのを幾分か御自慢の気味で、わたしを畑へ案内して見せたこともあった。焼いて食わせてくれたこともあった。家へのみやげにと云って大きいのを七八本も抱えさせられて、少々有難迷惑に感じたこともあった。
 それも今では懐しい思い出の一つとなった。わたしはこのごろ自分の庭のあき地を徘徊して、朝に夕にめっきりと伸びてゆく唐もろこしの青い姿を見るたびに、三浦老人その人のすがたや、その当時はまだ青二才であった自分の若い姿などが見かえられて、今後更に二十余年を経過したらば、こゝらのありさまも又どんなに変化するかなどと云うことも考えさせられる。」

 小説の語り手である「私」ではない、現実の綺堂が、震災の翌年の1924年、大正13年の3月に大久保に移り住んできたのは、小説ではなく、まぎれもない事実である。関東大震災で麻布の家を出ることを余儀なくされた、当時51歳の綺堂が移り住んできたのが、大久保、今で言うところの百人町なのである。綺堂が「三浦老人昔話」の連載を始めたのが、前年の震災の数ヶ月前、大正12年の春であったから、縁あって三浦老人の住んでいた町に越してきたことになる。そして、大久保で執筆を続けたのだ。となれば、綺堂描くところの過去の大久保の描写にも、より現実味が増していったものと想像できる。

 綺堂は、日記も残しており 大久保の家を借りることに決めた大正13年3月12日の日記には、次のように書いている。

 「駅から遠くないところで、靴屋の横町をゆきぬけた左の角。家の作りはなか よい。九畳、八畳、四畳半二間、三畳二間で、庭は頗る広い。家賃は百三十円、少し高いやうにも思はれるが、貸家普請でないのと、庭の広いのが気に入って、これを借りることにほぼ決定。周囲も閑静で、現住宅の比ではない。」                   (「岡本綺堂日記」青蛙房 1987)
 
 庭は確かに広かったようだ。綺堂の養嗣子となった岡本経一は書いている。
 
 「庭が百坪以上もあり、玄関脇に桜の大木があって、その花盛りには目印になるようであった。五月になると大久保名物のつつじの色が一円を明るくした。(中略)
 家の裏側から北に見渡される戸山ヶ原には、尾州候の山荘以来の遺物のような立木の中に、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建築と、明治製菓会社の工場にそびえている大煙突だけが目立った。」
                        (「岡本綺堂日記」)

 同じく岡本経一によれば、綺堂邸は、現在の百人町二丁目十二番地にあたるというから、新大久保駅と大久保駅の間、大久保通り、当時の仲通りを北側の路地に入って、かつての戸山ヶ原にぶつかるあたり、現在の山手メディカルセンターの向かいである。昭和に入った頃、この同じ一角に下村湖人が移り住んできて、昭和33年に亡くなるまでここに住んだという。 明治製菓は、大正5年に東京菓子株式会社として創業し、大正13年に明治製菓に改名した。その工場が、大正6年に完成し、キャンディやビスケットを製造していた。場所は、綺堂邸から東に向かい、綺堂邸から山手線を越えたあたりの線路沿いにあったようだ。ところが、大正14年に火災が発生したた。め、工場は川崎に移されたという。

 火災について、芳賀善次郎が書いている。

 「工場は、大正十四年四月二十九日、火災で大半が焼失した。山手線の蒸気機関車の煙突から出た火の粉が、敷地内の枯草に飛び火し、それが木造建築の工場に燃え移ったのである。」
           (芳賀善次郎「新宿の散歩道」三交社 1972)

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 綺堂の4月29日の日記にその夜のことが記されている。

 「十時就寝。やがて一寝入したかと思ふと、表は俄にさわがしく、火事だと叫んで門を叩く者がある。おどろき醒めて北の窓をあけて見ると、明治製菓会社の大建物が一面の火になってゐる。距離があまり遠くない上に、相当に風もある。いささか不安を感じないでもないので、家内の者はみな起きて出る。
 火の粉は西大久保の方へ専ら降りかかるらしいので、私は森部を連れて原田君方へ見舞にゆくと、原田君は不在、先刻門を叩いたのは原田君の細君の弟であったといふ。風向きは変って、この方面は無事らしいので、森部と引返してくると、西大久保の通りは頗る混雑、それでも火の手はだんだんに静まったらしい。」

 明けて翌日も、

 「製菓会社は千五百坪の建物を焼いて、その損害五十万円に上るといふことであった。焼跡の余燼はまだ消えないで、雨の中で燃えてゐる。」

 と続けている。
 この火災のことは、やはり、徳永康元が書いている。

 「子供の頃からいささか野次馬根性のあった私が、夜中の半鐘の音に起こされて戸山ヶ原へかけつけた時には、もうかなりの人だかりで、線路をへだててすぐ目の前の大きな工場が一面の炎につつまれ、熱気と火焔で息もつまりそうな光景だった。この時は人混みにまじって、多分この工場の建物が焼け落ちるまで見届けたのだろうか。その火事のあと、半焦げになった大量のビスケットの売出しがあり、それが案外においしかったことを妙によく覚えている。」(前掲書)

また、綺堂邸のほんの数十メートル西側には、大正2年くらいまで、梅屋庄吉が作った映画会社「パテー商会」の撮影所があった。梅屋庄吉は、大正4年、ここの敷地にあった自宅で、孫文と宋慶齢の結婚披露宴を行っている。宋慶齢は、蒋介石夫人の宋美齢の姉でもあるが、蒋介石も、河田町の振武学校に通っていた明治41年頃、大久保に住んでいたことがある。

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