
「出歯亀」前夜の大久保
出歯亀事件
西大久保で出歯亀事件が起きたのは明治41年3月22日のことである。
その夜、28歳の人妻・幸田えん子が、戸山ヶ原近くの湯屋つまり銭湯を出たところで何者かに乱暴されて殺された。真夜中になって、遺体は湯屋の向かいの空き地で発見されている。
数日後、新宿署に逮捕されたのが、東大久保の植木職人・池田亀太郎であった。亀太郎には「出歯亀」というあだ名があったことから、事件は「出歯亀事件」と呼ばれ、日本中を震撼させることとなる。この騒動は、三面記事好きの野次馬のみならず、最盛期を迎えていた自然主義文学の思潮までも巻き込んだ。
裁判の結果、亀太郎は無期懲役刑を下されている。
(事件の詳細については、「出歯亀伝説」を参照のこと。)

実は、この「出歯亀事件」、何の前触れもなく降って湧いたような事件ではなかった。その半年ほど前から大久保では女性を狙った暴行事件が頻発しており、この村はすでに不穏な空気に包まれていたのである。
だが、その話を始める前に、その当時の大久保とはどういう場所だったのか知っておく必要がある。今では考えられないことであるが、当時の大久保は「東京」ではなかった。明治22年に市制・町村制が施行され、15区からなる東京市が誕生するが、大久保村は、その15区には含まれていない。村の東側には、15区に含まれている牛込区が目の前まで迫っていたものの、大久保村はあくまでも東京市外、ぎりぎりの郊外、近郊であり境界であった。
武蔵野の入口、とも称され、数年前から、そののどかな自然の風景や美しい空気に魅せられて多くの文学者や芸術家たちが移り住んできていた。そんな文学者のひとり、戸川秋骨も、「朝早く雨戸をあけると、先ず聞こえるものは鶯の声である。」(「そのまゝの記」)と書いている。
大久保通りの周辺には田畑が広がり、茅葺き屋根の家々がぽつぽつと並んでいるような静謐な農村であった。畑に湧いた湧き水で大根を洗っている光景なども見られたという。
一方で、市内とは異なり街燈もまだ敷設されておらず、つまりは夜ともなれば往来は暗くて、提灯がなければとてもではないが歩くことはできなかった。
そんな平和な村がにわかに騒がしくなったのは、明治40年つまり事件前年の秋、11月からであった。その頃から、夜道で女性が襲われるという事件が続いていた。その被害者は、少なくとも5,6人に及んでいたという。
躑躅園の暴漢
例えば、11月9日夜、大久保停車場つまり大久保駅を出た若妻が、自宅を目指して今の大久保通りを東に向かって歩いていた時のこと、背後から、縞の羽織と着物を着た二十歳ぐらいの五分刈の男が近づいてきたかと思うと、いきなり首を絞められ、押し倒された。婦人は、いつの間にか通り沿いの躑躅園の暗闇に引きずり込まれていた。婦人が手足をばたつかせて必死に抵抗し、さらには、この暴漢の急所を思い切りつかんだところ、暴漢はたまらず悲鳴を上げた。そこに、異変に気づいた通りがかりの女性が、提灯を照らして近づいてきた。慌てた暴漢は婦人を突き飛ばすと闇の中へ逃げていったという。
この時期、同じような事件が数件、発生していた。どうやら、暗くなってから、ひとり歩きの人妻を襲っては躑躅園に引きずり込む、というのが手口らしい。通り沿いには、もともと「日出園」と「萬花園」というふたつの躑躅園があった。躑躅園などというと風流にも聞こえるが、実は、事件の数年前から荒廃が始まっていた。

大久保は躑躅の名所として知られ、その歴史は江戸時代に遡る。大久保百人町という地名は、この土地に大久保百人組の組屋敷があったことに由来している。牛込の根来組、青山の甲賀組や青山組と並び、大久保には伊賀組があったのだが、伊賀とは服部半蔵で有名なあの伊賀者で、鉄砲百人組を組織しており、徳川家入府の際にその警護のため、ともに江戸に入ったという。ところが、江戸時代も時を重ねると世の中も平穏になり、戦は過去のものとなる。百人組としては、当然、生活に困ってしまうわけだ。そこで、躑躅の栽培を内職にして糊口をしのいだというのが、大久保の躑躅の始まりだ。やがては遊覧地として、亀戸の藤や堀切の菖蒲と並ぶほどの名所となり、「江戸名所図会」にも描かれるほどだった。
明治に入ると、百人組は士族となる。躑躅園の敷地の多くが農民に払い下げられると、木が抜かれてしまうなどして園は廃れていった。そこで、明治6年くらいから有志の者があつまり、共同経営という形で一旦は躑躅園の再興に成功した。ところが、日清戦争が終わり、明治30年代に入る頃から、それまで無料だった地代が有料となり、次第に躑躅園の経営は難しくなっていった。さらには、明治35年に開園した日比谷公園に多くの躑躅を移植してしまい、園はますます荒廃していく。暴行事件が頻発していたのは、そんな頃だった。人気のない真っ暗な躑躅園が犯罪の舞台となっていたのだ。

先の婦人を襲った暴漢はひとりだったようだが、暴漢はふたり組のことが多かった。そのうちひとりは、身長がきわめて低い男だという。いずれにしても、暴漢はひとりではなく数人で徒党を組んでいると思われていた。彼らは躑躅園を中心にその出没範囲を広げ、東南に位置する鬼王神社付近にも現れることがあった。
大久保の治安は悪化していた。暴行事件だけでなく窃盗事件も増えている。もともと警官の数が少なかったという大久保だから、新聞にも「無警察の大久保」などと揶揄されるほどであったが、警察もただ手をこまねいて見ていたわけではない。警らの人数も増やしていた。ただ、夜分に出かける婦人の数は半減していたという。よっぽどの用事でもなければ、女性は、真っ暗な往来にひとりで出ることは控えていたというのである。
出歯亀との遭遇
第一次近衛内閣で文部大臣を務めた荒木貞夫は、日露戦争当時は陸軍大尉だったが、戦争後の明治40年頃に結婚して大久保に居を構えた。
ある晩のこと、新妻の錦子夫人が、湯屋の帰り道に暴漢に襲われた。暴漢が夫人の口を手でふさごうとしたその時、夫人がその指に噛みついたので、暴漢はたまらず体を離した。その隙に夫人は全速力で逃げ帰ったのだという。荒木の評伝を書いた橘川学は、「そして、その時の暴漢こそは出歯亀の異名で明治時代に悪名を馳せた痴漢だったのだ。」と書いている。(「荒木将軍の実像」)

錦子夫人を襲った暴漢が、果たして、「出歯亀」つまり、後に逮捕されることとなる池田亀太郎だったのか、それはわからない。いや、後述するように、どうも怪しい。ただ、その頃、大久保を震え上がらせていた暴漢か、そのひとりに遭遇したことに間違いはなさそうだ。
のちに前橋市の羽生田眼科医院の院長となる羽生田俊次は、この頃、大久保に住んでいた。当時の思い出を、羽生田の同級生が書き残している。
「その頃『出歯亀』という犯罪史上有名な変質者が、大久保の躑躅園(当時大久保は東京郊外、今と異って通りの両側躑躅園、夜道を照らす街燈もない真っ暗闇の寂しい植木屋部落だった)を中心に、毎夜のやうに附近の女たちを脅した。」 (「若い頃の俊次君を語る」)
そして、こともあろうに羽生田を含む友人たち四人で、「出歯亀」退治を思い立つ。ひとりが女物の着物を着て夜の躑躅園に忍び込み、出歯亀をおびき寄せようというのである。結局、真夜中になっても出歯亀は現れず、おとりとなった女装の友人ひとりを残して、三人は引き上げてしまった。少しして現場に戻ってみると、ひとり残された友人は寒さのあまり痔が悪化して躑躅の根元に倒れ、うんうん唸っていたという。
手記を残した小松晋助は「出歯亀」と書いているが、当然ながら事件前に「出歯亀」という異名は知られておらず、これは、当時頻発して噂にのぼっていた婦女暴行事件と、のちに逮捕されて有名になった「出歯亀」の名前とを、わかりやすく結びつけて書いたものだろう。いずれにせよ、血気盛んな青年たちとはいえ、こんな無茶に打って出るほど、暴漢出没の噂は人々の間に広まっており、深刻なものだったのだ。
政坊組
その頃、大久保には、家を持たない無宿者の群れがいくつかあった。戸山ヶ原の北側の諏訪神社あたりの森に根城を構えている輩が多かったようで、ぼろきれをテントにして、その中に寝泊まりしていたという。
大久保の北側に広がる戸山ヶ原は陸軍の演習場だったが、一般人も出入りできる遊行地としても知られていた。昼間は、近くの住民たちが、散策や運動、写生などを愉しんでいたが、夜ともなれば真っ暗で誰も近寄らなかった。現在は戸山公園大久保地区になっている場所に、射撃訓練の弾除けのための土塁「射だ」があったが、その横穴や陸軍の倉庫などにも潜り込んで、寝泊まりしている一団もあった。二十代の若い男たちで、近くの工場に日雇いに出ることもあるらしい。親分の名を「政坊」というところから、一団は「政坊組」と呼ばれていた。政坊は、歳の頃、二十三、四で、紺の半纏に紺の股引、職人風情だという。また、他にも、絣の着物と銀縁の眼鏡、という学生風情の者もいた。彼らは無宿者には見えず、書生か職人にも見えたという。

それでも、暴行事件が起きるたびに、「政坊組」の仕業ではないかとの噂が立った。とりわけ徳坊と呼ばれる男は、中肉中背、色の白い好男子だといい、昼間はおとなしく寝ているが、夜になると起き出し、戸山ヶ原周辺で盗みに入る。それだけではない、徳坊は、美しく家柄の良さそうな人妻を標的にして乱暴を働いているというのだ。
亀太郎の素行
では、「出歯亀」前夜、まだ世に知られていない、当の亀太郎本人は何をしていたのだろう。
今年35歳になる亀太郎が東大久保の借家に移ってきたのは4,5年前のこと。一説にはもともと東大久保の生まれとも言われるが、真偽の程はわからない。2人目の妻だというすゞと、幼い娘ふさ、そして、年老いた母親の久と暮らしていた。彼らの借家は、東大久保の西光庵という寺の門前で、西向天神社のすぐ裏手だった。つまり現在の新宿六丁目の東側の高台である。事件の頃には、石合智三なる職人仲間も居候していたという。

亀太郎は植木職人だったが、その腕は決して褒められたものではなく、性格も怠惰そのものだったので、次第に仲間からも疎んじられていった。「出歯亀」というおかしなあだ名の由来は、亀太郎が出っ歯だったから、というのが一般的に知られているが、実は、仕事は半人前の癖に生意気で何事にも口を出したがる、「出張る」ので、「出張り亀」が「出歯亀」に転じたというのが正しい、とも伝えられる。
この頃、すでに亀太郎は植木職人の仕事も失っており、ここ数ヶ月は家賃の支払いも滞っていた。大家のお情けで何とか追い出されずに済んでいたとはいえ、食い扶持はわずかな日雇いによるもののみだったようだ。母の久も女中の仕事をしていたものの、手癖が悪く、長くは続かなかったという。
ところで、亀太郎にはひとつの致命的で運命的な悪癖があった。湯屋で女湯を覗くというもので、数年前から始めたという。当時、大久保には4軒ほどの湯屋があった。東大久保の窪地、蟹川のほとりの久左衛門坂に一軒、そして、西大久保、大久保通り沿いに一軒、こちらは「万年湯」といって、今でも存在している。そして、おそらくは、大久保駅の近くに一軒、そして、西大久保、戸山ヶ原のすぐ目の前の森山湯、である。亀太郎が覗きに通っていたのはこの森山湯で、その板塀に、女湯の脱衣所が覗ける節穴があったのだという。さらに、戸山ヶ原の目の前というから人通りも少ない。亀太郎の家からは歩いて10分程度だろうか。そう考えると、久左衛門坂の湯屋は自宅に近すぎて、覗きをするには不都合だったのかもしれない。
亀太郎は、若松町の湯屋でも覗きをしたことがあったといい、その時には、近くにいた人力車の車夫に見つかって殴りつけられている。
さらには、湯屋帰りの婦人の後をつけていたずらをしかけたこともあって警察の厄介にはなったものの、説教だけで済んでいたという。ちょっかいを出したり、からんだり、というのが実際だったのだろう。荒木大尉夫人を襲ったのも、もしかしたら本当に亀太郎なのかもしれないが、どうも、それほどの乱暴な真似ができる男には思えない。職人仲間から「手なぐさみの亀」などとも呼ばれていたらしいことから、亀太郎の本職はあくまでも「覗き」であったのだろう。
ただし、亀太郎については、事件後に話の尾鰭がつき、伝聞も交えてずいぶんと好き勝手な虚像が出来上がっていくことになる。出歯亀事件の被害者・幸田えん子についても、前々から知っていて目をつけていた、などと書いているのもあるが、少なくともそのような事実はない。
おそらくは、その頃の大久保には同じような悪さを行う輩が何人かいたはずだが、出歯亀事件後、すべてが亀太郎の仕業ということにされていった節がある。
当初は「覗き」を指す言葉として広まった「出歯亀」も、あっという間に、総じて「変態性欲」を表す代名詞に拡大していった。あること、ないこと、すべて吸収しながら、亀太郎は、いつの間にか「変態性欲」や「性的倒錯」、さらには、当節流行の「自然主義」のご本家として祭り上げられたのである。
あえて付け加えるならば、覗きの常習犯ではあったものの、亀太郎と「出歯亀事件」とを結びつける物的証拠は存在しない。その当時でさえ冤罪説がまことしやかに囁かれていたほどである。

自業自得といえばその通り、自らの怠惰な性格がもたらしたとはいえ、貧困にあえぐ亀太郎は、日々、仲間に悪態をつき、そして、安酒に酔っては湯屋に足を運んで密かに欲望を満たしていた。近いうちに、日本中が自分のことを、そして自分のあだ名を知るようになるとは微塵も想像していない。
徳坊は、大久保の夜陰に乗じて、盗み、暴行、と、悪事を重ねていた。かなり危ない橋を渡っていたのは間違いないだろう。事件の直後、徳坊は戸山ヶ原から姿を消す。
犯人はどちらなのか。どちらでもないのか。仮にどちらも「出歯亀事件」の犯人でないとすると、この時、大久保には、このふたり以外に、名もなき殺人者までが潜んでいたことにもなる。
「出歯亀」前夜の大久保は不穏な空気の中にある。「出歯亀」などという言葉も、そのあだ名の当人である池田亀太郎も、まだ誰にも知られていない。しかし、間もなく漆黒の闇がこの村に災いをもたらし、「出歯亀」という言葉が日本中に広まることだろう。
そして、明治41年3月22日、ついに事件は起きたのである。
参考文献
『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』東京都新宿区教育委員会 1984
小沢信男『ぼくの東京全集』筑摩書房 2017
戸川秋骨『そのまゝの記』籾山書店 1913
小松晋助「若い頃の俊次君を語る」 羽生田進『三度黄塵を浴びて』1947
橘川学『荒木将軍の実像』泰流社 1987
遠藤鎮雄『かわら版明治史』角川書店 1967
瀬戸口寅雄『とかく浮世は』あまとりあ社 1957
森長英三郎『史談裁判』日本評論社 1969
『りべらる』第6巻 第8号 太虚堂書房 1951
小泉輝三朗「著名事件の回顧」『研修 10』誌友会事務局研修編集部 1956
『明治ニュース事典 明治41年−明治45年』毎日コミュニケーションズ 1986
『新聞集成 明治編年史 第13巻』財政経済學會 1936