"東へと向かう列車で②"
麻里の母、野村美幸は、三島市内の中央通りの商店街の一角で、花屋を営んでいた。麻里は、今年の3月に高校を卒業してから、その花屋で働いていた。
父の野村正之は、かつてA新聞の記者をしていた。10年前、ロンドンの支局に赴任していた時、市内の地下鉄で起きたテロ事件の取材をしていた。ある日、その事件の取材のため、ベルギーのブリュッセルまで行くことになり、ロンドン発のブリュッセル行きの特急列車に乗ったが、それ以来、行方不明になってしまった。支局の同僚が、駅に見送りに来て、列車に乗り込むところを見ているので、乗ったことは間違いないのだが、ブリュッセルまでの途中の駅に降りた形跡が残っていない。
捜索は、続けられたが、結局何の手がかりも得られないまま、打ち切られる事になった。列車に乗っている間に"消えてしまった"
ことになる。支局のデスクの上には、彼が愛用していた、ライカのカメラが置かれてあった。
二人がリハビリをしているところへ、担当医の夏木がやってきた。夏木は、正之と同級生である。
「このまま順調に続ければ、年が明ける頃には歩けるようになりますよ。」
「そうですか。」
それを聞いて、美幸は、少し気が楽になった。
病院からの帰り道で、
「さっき先生が、年が明ける頃には、歩けるようになるって言ってたわよ。」
「後、3ヶ月とちょっとか。がんばって続けるしかないね。歩けるようになったら、私も東京に行こうかな。」
「そんなこと考えてたの。あなたまで行ってしまうと、母さん、一人ぼっちになっちゃうじゃない。」
「冗談よ。どこにも行かないわよ。そう言えば、お兄ちゃん、この前帰った時、お父さんが使ってたカメラ持ってったみたいだけど。」
「趣味で撮るんだったらいいんじゃないの。誰も使ってないんだから。」
野村隆史は、数寄屋橋の公園のベンチに座って、求人誌をめくってみた。少しずつページをめくっていくと、極めて大きな活字で書かれた求人広告を見つけた。
"中途採用、記者募集、M新聞社"
求人誌をボストンバッグに入れて線路沿いの通りを、新橋の方へ向かって歩き始めた。 あれから、10年も経っているのだから、父親の消息がわかったところで、なにが変わるものでもない。しかし、今思うのは、いつの日か、ロンドン発の東へと向かう列車に乗って…。
(2020年10月〜2021年3月にツイートしたものを再編集)
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