短編小説「雪が降ると思い出す 悲しくて美しい光景」
前にもお話しましたように、知恩院三門の工期は二年とあらかじめ決められています。
奈良でしていたように、ゆっくりと丁寧に時間をかけて建ててゆくことは出来ないのです。
主人も、自ら道具を手にして、若い大工に教えながら仕事をすることも無くなってしまいました。
それぞれの棟梁からの相談ごとを聞いて、それをさばいてゆくだけになっています。もう大工と言うより、お役人みたいな仕事ぶりです。
二年など、あっという間に過ぎてしまいますから、そうでもしないといけないのでしょう。
役人と言えば、造作奉行の五味金右衛門様です。
この方は今まで見てきたお役人と大分違いました。
私も、近いものですから、足繁く現場に足を運んでいましたが、いつ行っても五味様は、いらっしゃいました。
夏の暑い時も、冬の寒い時も、常に現場にいらっしゃいましました。
そんなに現場に、足を運ばれるお役人は居ません。五味様は、全くお役人には見えないお方でした。
現場では、大棟梁の主人に、それぞれの棟梁から持ち上がってくる意見が上がって来ます。
大棟梁はそれを聞いて判断し、棟梁に指示を与えます。棟梁は、それを自分の配下の者に伝えて、それぞれの大工が納得して仕事を進めてゆきます。
その様子を五味様は、黙って傍らで見えられるのです。
決して、その場で口を挟むようなことはされません。なぜこういう意見が持ち上がって、来ているのか。どういう指示を出したのか。棟梁は、それをどういう風に現場に伝えたのか。把握しようとされているお姿が伺えました。
実際に作業をしている大工にも、ねぎらいのお言葉を欠かさずに掛けられます。そしてさりげなく、どのような指示の下で、作業をしているのか質問をされるのです。五味様は、この三門がどの様にして建てられるのか、全て把握されていたのではないのでしょうか。
そこまでされるお役人など見たこともありませんでした。
そして、それが返って仇になるとは、その時は思わなかったのです。
今思い出しても、涙が出てきてしまいます。今夜のように雪を見れば、五味様の事を思います。
奥方のお幸の方の事も、頭の中にしっかりと焼き付いています。
重苦しい雲がのしかかる底冷えのする冬の日に、五味様の葬儀が行われました。読経が行われる間中、悲しみと寒さのために体が小刻みに震えていました。
焼香する時に垣間見た、奥様のしかと目を見開き口元をぐっと引き締めて、涙がこぼれ落ちるのを必死で押さえる表情。背筋をピッと伸ばして、悲しみのあまり泣き崩れるのを耐え忍ぶお姿。さすが武家の奥方は違うなと思ったものです。
それが出棺の時になると、さすがに耐えきれず、取り乱して泣き叫ばれたのです。「私も連れて行って。私も後を追います。死なせてください、死なせてください」と叫ばれたお声が、今でも耳に残って離れません。
その時、急に雪が降り出したのです。
それも、粉雪ではなく、大粒の牡丹雪が降り注いできたのです。
あたり一面の景色が、見る見るうちに白一色になりました。大粒の牡丹雪は、かさこそと微かな音を立てて、積もってゆきます。
それは、氷のように張り詰めていた空気が溶かされてゆくような気がしました。鼻の奥に感じるつんとした乾いた感覚と降り注ぐ牡丹雪の真綿のような優しく柔らかい感触が、五味様のお人柄を思い起こしました。
五味様が牡丹雪となって、降り注がれているのです。
喪服を召されているお幸の方も見る間に、白色に染められてゆきました。
何と、喪服が白無垢を召されているように雪に覆われてしまわれたのです。
表情も、雪の優しさに包まれて、穏やかになられたように見えます。
お幸の方の頬を流れる涙を拭うように、牡丹雪は降り注ぎます。
お幸の方の涙に、牡丹雪が優しく張り付くと、真綿のような雪が、涙をいっぱいに吸い込み、雪が耐えきれなくなると、砂金のような細かい輝きを残しながら、涙と同化します。
それが何とも言えずに美しいのです。
今までに、あれ程悲しくて、美しい光景を見たことがありません。
それから一年も経たない頃、出家されて嵯峨野から、わざわざご挨拶に来られた時、初めて見るお幸の頭を丸められた清々しいお顔がお綺麗でした。
お幸の方は、人払いをされて主人と二人だけで長い間話をされていました。
後で聞いた話なのですが、お幸の方が亡くなったら、五味様と一緒に三門のたもとに墓を建て弔って欲しいと懇願されていたそうです。
五味様には、多大な恩義を感じている上に、お亡くなりになられたのも、元はと言えば主人からの因果であることを承知しておりましたので、八方手を尽くしました。
宗派では、五味家は浄土宗でおられたので問題はないのですが、知恩院自体が将軍様のご加護を受けているので、咎を受けた五味様を受け入れるわけがなく、ましてや三門の辺りは聖域です。
そこに、墓を建てるのは許されるわけがないのです。
主人は、それを分かっているのですが、五味様の奥方のたってのご希望であるので、無下にお断りすることができないのです。
思い余って、五味様とも親交のあった小堀遠州様のところへ相談に行きました。小堀様は、それを聞くと腕組みをされて、目をつむって暫く考えおられたそうです。思いつめた表情が和らぐと、目を開けられました。
「遊佐殿、昔の中国では、立派な建物が完成した時に、その建物が長く残るように、翁と媼の木造と各々の空の柩を屋根裏にお納めしたと聞いたことがある。その風習にちなんで、五味様とお幸の方の木造を作り、空の柩を三門の屋根裏にお納めしたらどうだろうか、お上に聞こえるととやかく言われるので、密かに進めなければならない」
遠州様は、それを言い終わられると、片頬を上げて片目を閉じられました。
主人は、その片目を閉じられた意味がずっと分からなく気になって、仕方がなかったそうです。
父からも、その様な中国の習わしには、聞いたこともありません。
主人は古老の棟梁や学者に、ことあるごとにその風習について尋ねましたが聞いたことがないと、言われました。
しかし、久事方奉行の遠州様がおっしゃるのなら間違いはないだろうと、いうことで、五味様とお幸の方を模した翁と媼の木像を作り、白木で作った棺と共に、三門の山荘になっている最上階の屋根裏にひっそりとお納めしております。
私らが生きているうちは、その五味様ご夫妻の木像と白木の棺の意味は、分かる人がまだおりますから、良いのですが、時代が変わって私らが、いなくなってしまうとどうなってしまうのでしょうか。
主人もそれを心配していました。
遠州様からも、公にすることは禁じられております。
思い余って、主人は、嵯峨野にいらっしゃいますお幸の方に相談をしに来ました。
お幸の方は、
「よくよく考えてみれば、墓所を三門の近くに持ってくるのは無理なことだと思っておりました。中国の風習とは言え、私どもはそのようにして、三門の中に収めて頂けるのは光栄です。何も残さなくても結構です。その地に人知れず、ひっそりと五味殿とずっといられるだけで構いません」
とおっしゃられたそうです。