鯖の煮付けとスパークリングワイン(『天国へ届け、この歌を』より)
いつもの駅で降りる。
いつもと違う、自宅とは反対側の出口から降りる。
娘のカンナと同じくらいの、親子ほど年の離れた若い女性と連れだって、スーパーマーケットの食品売り場で買い物をしている。
妻の美由紀が見たら、どう思うだろう。
美由紀とショッピングセンターに出かける時はいつも、駐車場の自分の車の中で待っている。
この姿を見ると驚くだろうな。
改めて食品売り場に行ってみると値段の安いことにびっくりする。居酒屋のメニューでは千円近くするようなものが、半分に近い値段で売られているのには驚きだ。それにしても、色々なものが置いてある。
何だか、子供の頃の駄菓子屋に来ているような気分になってきた。
香田さんは、メモを見ながら熱心に商品を探し回っている。私は、それについて行くのがやっとだ。気になるものがあって、手に取って見ていると、彼女は急にいなくなる。
背丈以上に積まれた通路は迷路のようになっていて、一人取り残される。
私は、色とりどりの商品に囲まれて、落ち着きを失う。
慌てて探し回る。
彼女はいた。鮮魚のコーナーで一生懸命に魚を見ていた。
遠目にみる彼女は、すらりと背が高く色白で、そこはかとなく春の小川のような柔らかくすがすがしい雰囲気を漂わせていた。何処か若い頃の美由紀に似ているようにも思う。
香田さんは顔を上げた。彼女も私を探しているようで、泳いだ視線が私に向けられた。今にもこぼれるばかりの笑顔になった。私も、つられて笑顔になっているのが分かった。
「今夜は、鯖の煮付けにしようと思いますが、大丈夫ですか?」
何が、大丈夫なのだろうか?鯖でいいということだろうか?
煮付けでいいということだろうか?
正直言って、そのあたりのニュアンスがよく分からない。
「鯖の煮付けは、大好きですよ。香田さんが作ってくれるの?」
「ええ、レパートリーは少ないですが、結構自炊していますので、ある程度は作れます。ところで、飲み物は、何にされますか?」
日本酒が欲しいところだが、若い女性の部屋で、オジサンが日本酒をちびりちびりと飲んでいる姿を思い浮かべると、不釣り合いのような気がする。
「スパークリングワインにしようかな。香田さんは、お酒は飲めるの?」
香田さんは少し考えるような様子を見せた。
彼女は、私を見た。しかしその視線は私を通り過ぎて行った。
「普段は飲みませんけど、多少なら飲めると思います」
そうだな、彼女の部屋で酔っぱらうのは良くない。ハーフボトルにしておこう。
私の中で、スパークリングワインをグラスに注いだ時のように、無数の小さな泡が立ち上がって、そして弾けた。
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