短編小説『宴のしたく 前編』
「優しいね」
私のテーブルクロスが上になるように重ねてくれた礼を言った。
「狭くって、すいません」
目の前に香田さんの横顔があった。
気が付いたら、彼女は重くるしい黒縁の眼鏡を外していた。
耳の後ろから顎にかけての緩やかな曲線と一気に払ったような眉の線が見事なコントラストを描いている。
美しい。
高名な書家の作品のような思いっきりの良い筆使いの中に計算しつくされた美があった。
それに、二羽二重餅のような頬は、目の前に置かれた陶芸品のように思わず手を触れたくなる衝動に駆られた。
このまま時が止まってくれないか。
彼女の美しさは、私の中にある黒く淀んでいたものを一気に吐き出してくれた。
私は、香田さんに見とれていた。
その一瞬があまりにも長く続いたように思った。香田さんも、見られていることに気が付いたようだ。
「食事の支度をしますので、少し待っていただけますか」
香田さんは、ピンク色のエプロンを何処からか取り出してきて、キッチンに向かい先程の買い物をスヌーピーのエコバッグから手際よく取り出した。
スヌーピーのエコバッグが綺麗に折りたたんで丸められた。
後ろで結ばれたエプロンの結び目は、二つの輪とその両端の長さがきちんとそろっている。彼女の性格を表しているように思えた。
そして、見てはいけないと思いつつ淡いブルーのギャザースカートから出ている太ももからかかとの線に目が行ってしまった。
それは、刀匠が玉鋼の塊を鍛錬して苦労の末に打ち出された刀剣のような無駄のない見事な曲線を描いていた。
私は、ずっとこのまま彼女の後ろ姿を見ていたいような衝動に駆られた。
突然、何の前触れもなしに彼女は歌い出した。
こちらを振り返ることもなしに前を向いたままに歌い出した。それは鼻歌程度のものではなく確かに誰かに聞かせるだけの音量があった。
私は、ミュージカルの舞台に突然放り上げられた観客のように戸惑った。
♬夕暮れ
色あせる街並み
光りを失ってゆく街に
窓に灯りだす明かりは
私には眩しすぎる
涙でかすむ
頬をつたう涙の
そのぬくもりが欲しい
あなたは何処へいってしまったの
あなたの思い出だけを
追いかけるのは
辛すぎる
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
あなたが好きだった
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
もし、また会えたのなら
「ごめんなさい」と言う
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」
♬朝焼け
光りを取り戻した街に
窓を銀色に反射する輝きは
私には眩しすぎる
涙でかすむ
頬をつたう涙の
その輝きが欲しい
あなたは何処へいってしまったの
あなたの思い出だけを
追いかけるのは
辛すぎる
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
あなたが好きだった
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
もし、また会えたのなら
「ごめんなさい」と言う
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」
香田さんの歌が終わった。
終わると同時にレンジのスイッチを切った。
彼女は、私に背を向けたまま、何事もなかったように料理を続けている。
続く