御陵衛士、参上!(『龍馬が月夜に翔んだ』より)
龍馬の用心棒の藤吉は、二人の脇差の下げ緒がしっかり巻かれていて、すぐに抜けない状態にあるかを確認した。
「失礼しました」
しかし、二人の脇差は下げ緒がぐるぐる巻きにしているにも関わらず、すぐにでも抜けるようになっていた。
これも、永倉新八が考えた「永倉巻き」である。永倉は昔から、思想とか思考には全く関心を示さず、寝ても覚めても剣術、戦術の事ばかりを考えている。
実際に、新選組の戦闘の方法は、ほとんど永倉が編み出したものである。この「永倉巻き」も、永倉が考えた。
「永倉巻き」とは、下げ緒を三つ折りにして、その中心を柄の上に置き、下で輪になったところに下げ緒の端をくぐらせるだけの簡単なものである。
見た目は、しっかり巻いてあって、刀が容易に抜けないように見える。
しかし、実際には巻いていないので、刀を抜くと下げ緒が簡単に外れるようになっている。
普段からその様な巻き方はしないが、出動する前には必ず、「永倉巻き」に巻き替える。
今では、新選組の全隊士がそのやり方をしている。
「ここで、お待ちしてください」
丸腰の何の因縁もないものを後ろからいきなり斬りつけるはずもないのに、藤吉は背中を見せないように気を遣いながら二階へ上がった。
襖が一度開く音がして、閉まる音が聞こえた。
藤吉の伺いを立てる声が低く響いた。
沈黙が続く。
やがて、物を引きずるような音がして、座敷の中を人が動く気配がした。
やはり、中岡慎太郎らは奥の部屋にいるのだ。
また、襖が開く音がして、閉じる音が聞こえた。
すっと音もなしに、藤吉が姿を見せた。
「どうぞお上がりください」
踊り場に正座して、軽く頭を下げた。
二人は、ゆっくりと階段を上った。
狭い急な階段なので、先を行く服部が三段も上がると、藤堂は服部の背中ばかりで、全く視界をふさがれてしまった。
二階に上がると、すぐに襖があり藤吉が片膝を立てて開けた。
上がったところは六畳の間で、誰もいないが、行灯がともっており真ん中に文机が置かれている。
明らかに、今まで人のいた気配がしている。
中に二人を入れて、その襖をそっと閉じる。
藤吉は、足元の文机に注意を促しながら、すっと先に回り閉じられた奥の間の襖の前に正座した。
藤堂平助は、服部武雄の背中越しに見えた襖絵があまりに見事だったので、先に回って襖絵を眺めた。
それは、金箔地につがいの鯉を左右の襖一枚に堂々と描かれていた。
両脇の書かれた菖蒲の勢いのある筆遣いと緑色が見事であった。
それが、行灯の揺らめく光を受けて、あたかも春の光を浴びた温かい水面を泳いでいるように見えた。
「高台寺、御陵衛士様のお二人が来られました」
藤吉が伺いを立てているのを上の空で聞いていた。
それほど、藤堂は、この絵に見とれていたのである。
大きい黒鯉の襖を藤吉はゆっくりと開けた。
緋鯉が書かれている方の襖は、ひとりでにすっと開いた。
藤堂は、襖絵見続けることが出来なくなるという思いは、これから踏み込むことの恐怖を忘れさせていた。
つづく