天の啓示(小説『宮本武蔵はこう戦った』より)
武蔵は、小舟に乗り込むと、真ん中の粗末な敷物が敷かれた席に腰を据えた。
そして、船頭を見やり、目で出すように促した。
船頭はそれには返答せず、おもむろに立ち上がり、櫂(かい:舟をこぐ道具)を手繰り寄せた。
船頭は片腕がなかった。
右手の肘の二寸ほど先がなかった。
粗末な身なり船頭なのだが、明らかに、それは切り合いで、切り落とされた跡と見受けられる。
かつては、足軽として、戦に出ていたのだろうか。
得体のしれない者である。
しかし、船頭としての腕は確かだ。
左手だけで器用に櫂を扱う。
桟橋の端をこつんと櫂の先で突くと、すっと小舟は桟橋から離れた。
次の瞬間、いきなり櫂を海中に突き刺すようにこじ入れた。
小舟は沈み込むように、つんのめりながら急停止した。
浮き上がるような感じがした瞬間に、船頭は、器用に右手だけで櫂を手繰り寄せながら、それを海から引き抜き、櫂の先が姿を現すと思いきや、片手を滑らすようにして、櫂の一番端まで持ってゆき、くるりと自分の前で回転させた。
海面に白濁の半円が大きく描かれ、小舟は、まるで駒のように半回転して向きを変えた。
それは、海と小舟と船頭が、一つになっているようで、全くの無駄がなかった。
武蔵は、その動きをじっと見ていた。
船頭が、その都度、櫂を持つ位置を変えていることを不思議そうに見つめていた。
船頭の持つ櫂は、まるで生き物のように動いている。
小舟が滑るように走りだした瞬間に、沈み込む感覚の後に、くるりと向きを変えた動きも気になって仕方がなかった。
「止めてくれ」
船頭は一瞬、怪訝な顔を見せたが、再び櫂を持つ手を巧みに変えて、沈み込ませるようにして、小舟を急停止させよとした。
奈落の底から、浮かび上がるように小舟は動いた。
すかさず、
「出してくれ。進め」
船頭は、返答もせず、素知らぬ顔でまるで己の櫂さばきを見てくれと言わんばかりに漕ぎ出した。
順調に速度を上げたと、思った途端、
「止めろ」
最初から、今乗せているお侍は、尋常ではないと感じている船頭は、もはや躊躇せず、言われた通り小舟を静止させることのみ、神経を集中させた。
そして、また海中に櫂を突き刺すようにこじ入れた。
また、小舟は沈み込むようにして止まった。
武蔵は船頭の動きをずっと見ている。
「出してくれ」
今、武蔵は波間に漂いながら櫂の動きによって、小舟が生き物のように動くことを意味があると感じていた。
静止した時の沈み込むような感覚を身体に覚えこませようとしていた。
小舟が止まり、沈み込む瞬間に波間と我と天地が一体になる様な気がするのだ。
一艇の櫂によって、大海原はおろか、宇宙までも操ることが出来る。
船頭は、左手のみで、その空間を自由に操作している。
櫂を操る左手が、この場では支配者なのだ。
もう十回も、少し進んでは止まりの動きを繰り返している。
桟橋で見送っている人々は、怪訝な面持ちで小舟を見ている。
何しろ、一向に島に向かって逝かないのである。
口々に雑言を吐いている。
中には、「武蔵が怖さのあまりに、気が触れたのではないか」と言う者までいる。
「船頭、その櫂を貸してくれ」
「お侍さま、お気遣いは無用、島まではすぐでございます」
「いや、違う。この櫂を木刀の代わりに使いたいのだ」
「こんな使い古しのものでも良かったら、すぐでもお貸ししますが。それでは、島に行くことが出来ませんが」
「とにかく、その櫂が欲しい」
結局、それを武蔵に渡すことにして、代わりの櫂を取りに戻ることになった。
ようやく、舟を漕ぎ出したと思いきや、同じところをくるくる回ってばかりで一向に進まないでいて、挙句の果ては桟橋に戻ってくる。
何事かと、集まってきている人々をすり抜けながら、船頭は新しい櫂を取りに行き、すぐに戻ってきた。
船頭が持ってきた櫂も、今まで使っていたものと同じくらい古びたものであった。
船頭は、それを武蔵に渡そうとしたが、武蔵はもうすでに、今まで使っていた櫂を小柄で削り出していた。仕方ないという表情で、船頭は、黙ったまま手にした櫂を小舟に取り付けた。
神経を研ぎ澄ました武蔵は、船頭の使う櫂の動きと、それに連動する舟の動きによってよって、何かをつかみ取った。
そして船頭の使う櫂の扱い方を佐々木小次郎との戦いに応用するために、武蔵は櫂を木刀の代わりに使うことにしたのだ。
これがあれば勝てる。
武蔵は確信した。
自然と一体化し、神経を研ぎ澄ました武蔵は、片手一本で櫂を操り小舟を操作する船頭の動きを見て、天の啓示を受けることが出来たのだ。