短編小説「地下鉄が黄昏の鉄橋を渡るときに思うこと」
やっと一日が終わった。帰りの地下鉄御堂筋線は、混み合う。
特に淀屋橋から梅田方面に行こうとすると、京阪からの乗り換えがあるので降りる人より、乗り込む人の方が圧倒的に多い。
だから、淀屋橋駅から乗る人は、すでに充分に混んでいる車両のところに、無理やり入り込まなくてはいけない。
たまに座れそうな席がある車両が来るが、それは中津行きか新大阪行きである。
降りる駅はその先の江坂である。
乗り換えが面倒なのでそれには乗らない。
いつも、先頭から2両目の2番目の出入り口に乗るようにしている。
そこなら、梅田で大半の乗客が降りてしまうので、それから大概は座ることが出来る。
座席に座って、岩波新書を読むことにしている。
10分も満たないが、それが帰り道の唯一の楽しみだ。
明らかに読んだことがあるはずの本なのに、新鮮で小さな発見がいくつも出てきて、新たな感動を呼ぶ。
年を取らないと分ってこないことが沢山ある。
人間関係、社会の動き、歴史、それらの機微はある程度経験を積まなければ理解することが出来ない多い。
若い者は、そのあたりは分からないだろうと、過去の自分を振り返ってつくづく思う。
年を取るのも悪いものではない。
しかし、その一方で「赤と黒」のジュリアン・ソレルが小賢しい若者に、「狭き門」のジェロームが青臭い若者に思えたりする。
あの時の感動は、何処に行ってしまったのだろう。
身体の奥から湧き上がってくる、思わず駈け出したくなるような、あの胸の高鳴りは何処に行ってしまったのだろうか。
失った感動の方が多いかも知れない。湧き上がる感動が、もう得られなくなっている。
それを埋めるために、技巧的な箇所の解釈をしたり、物語の中に埋もれているロジックを探し出そうとしたりしている。
身を乗り出すようにして舞台を凝視している観客から、冷笑を浮かべ椅子に踏ん反り返って見ている皮肉な批評家に成り下がってしまった。
あの頃に戻れないだろうか。
あの感動は、何処に行ってしまったのか。
顔を上げて、車窓に映る自分の姿は、くたびれた、白髪交じりで少し禿げ上がった何処にでもいるただのおじさんである。
殉教の使命を帯びた、若きテロリストのような風貌の自分は何処に行ったのだろう。
40年前の若者がここまで朽ち果てるものなのか。
知り過ぎたために多くを失ってしまった。
寂しい。
空しい。
いつの間にか、地下鉄が地上に出てきている。
ゆったり流れる淀川の先にある大阪湾に沈む夕陽が、私をセピア色に染めていた。
富みや名声やらが染みついたスーツが
垢にまみれて薄汚れてしまったような気がした。
明らかに、得たものより、失ったもの方が多い。
この川を渡るたびに、付けていた仮面を外していた。そして本来の自分に戻れることが出来た。でも、今では仮面が外せない。自分の体の一部になってしまっている。
これが、自分なのか。
遠くで自分の名前を呼ばれたような気がした。