短編小説『日本酒と鯖の煮付け 』
お父さんと電車に乗った思い出は、家族で岡山のおばあちゃんの家に行ったときのことしか残っていない。
新幹線に乗って岡山駅で降りたときに、人ごみで迷子にならないようにとお父さんはワタシの手を握ってくれた。
なぜかそのときのことを思い出した。
いつもの駅で降りた。
「今日は一緒に帰るのだから、オトーサン、手をつないでください」と言ってみたくなった。
こうやって、会社帰りにお父さんといっしょに並んで歩きたかった。
そっと、オトーサンの横顔を盗み見した。
ふせ目がちに自信のなさそうなとまどった顔。
どこかで見たことがある。
そうだ、ヤマギシ君の顔だ。
ステージに立って、歌いだす前の不安な表情。
今、オトーサンの横顔をみて、またヤマギシ君を思い出した。
心の奥が熱くなって、息をいっぱいに吸い込んだような感じ。
またあの感じがよみがえってきた。
スーパーマーケットの中に入ったとたんに、オトーサンは変わった。
おもちゃ売り場につれてこられた子供のような表情に変わった。
見るもの手に取るものが、みんな目新しいようで、商品を手に取ってパッケージをながめている。
ワタシは、そんな姿をそっと見つめていたが、あまりに熱心に商品をみて回るので、そのままにして買い物を続ける。
サバの煮付けを作ることに決めているけど、オトーサンは舌が肥えていそうなので、真剣にお魚を選らばないといけないな。
ふと顔を上げると、遠くにオトーサンがいた。
オトーサンはワタシを探していたようで視線が合うと、迷子になった子供がお母さんに探し当てたような表情になった。
オトーサンの顔になつかしさを感じた。
オトーサンが笑った。
つられてわたしも笑った。
「今夜は、サバの煮付けにしようと思いますが、大丈夫ですか?」
将来、結婚して義理のお父さんに接するときは、こんな風に話すのかなと思った。
オトーサンも返答にこまっている様子。
「サバの煮付けは、大好きですよ。香田さんが作ってくれるの?」
お父さん、ワタシ、お父さんが好きだったサバの煮付けくらいは作れるようになったのよ。
「ええ、レパートリーは少ないですが、結構自炊していますので、ある程度は作れます。ところで、飲み物は、何にされますか?」
そう言えば、お父さんが家でお酒を飲んでいる姿を見たことがなかった。
私が小さい頃のお父さんは、家族で一緒に楽しそうにテーブルを囲んで食事をしていた。
その時は、ビールも日本酒もテーブルの上になかったように思う。
でもオトナになったワタシは、もしお父さんが生きていたならいっしょに日本酒を飲みたいなと思う。
酔いがまわって、赤ら顔で少し饒舌になったお父さんが、ワタシの幼い頃の話をしてくれる。
赤ちゃんだった私を初めて抱っこしてくれたこととか、ワタシの知らない話をいっぱいしてくれる。
同じ話を何回も話してくれる。
くどいなんて思わない。
ワタシは、そのたびにお父さんと共通の過去にもどれるのだもの。
ワタシは、お父さんと日本酒を飲みたかった。
「スパークリングワインにしようかな。香田さんは、お酒は飲めるの?」
やっぱりお父さんとオトーサンはちがう。
オトーサンの目の下にできたたるんだシワをみた。
お父さんは遠くにいってしまった。
お父さんはもういないのだ。
「普段は飲みませんけど、多少なら飲めると思います」
なんで正直に言葉に出せないのだろう。
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