連作短編小説「小堀遠州様の教え」『白木の棺』
家康様の喪が開ける間なしに、造営奉行の五味金右衛門様に呼び立てられました。
何やら、中井様の代わりに、五味様が将軍家の造作の仕事を一切任されたそうなのです。
先ずは、中井様の懸案となってとなっていた知恩院の山門の建築に取り掛かるようにと仰せつかったそうです。
主人が、その模型を持って帰って来ましたが、それは見事なものでした。
山門と言うよりは、立派な砦のように見えます。
主人は、東大寺の南大門の修理をしたことがありましたけれども、それに比べると何やら武骨なような気がしました。
口には出しませんでしたが、東山の知恩院さんの前にでんと、味気のない武骨な門が建つのは、不似合いのように思われたのでした。
察しの良い主人は、私の顔色を見て私が何を言いたいのか分かったのでしょう。
「南大門とは、違うなあ。中井様が設計されたものだから、文句は言えないが、これはどう見ても、砦にしか見えない。戦でも始めるわけではないのになあ」
独り言のようにつぶやいています。
「あなたの言う様に、時代が変わったのよ。そのような武骨な建物が今の流行りじゃないのですか」
少々嫌味を込めて言いました。
「ううむ。分からん。今回の造営には、小堀遠州様も絡んでおられるから、一度相談してみよう」
「確かに、小堀様ならば、今様の風情にも詳しいでしょうから、そうされた方がよろしいのではないのでしょうか」
早速、いつもの佐吉と甚五郎を従えて、小堀様のお屋敷に向かいました。
当世一の風流人である小堀遠州様は、やはり違います。
模型を一目見ただけで、的確に指摘をなさったそうです。
「構えるから、武骨な門になるのだ。風景の中に溶け込ませながらも、その存在感を醸し出さなければならない。知恩院は、法然さまをご供養しているところだから、世の中とあの世との玄関口にならないといけない。吸い込まれるように門をくぐり、そこを抜けると、解き放たれたような感じを受けるようにしなければならない」
それを小堀様から聞かされた時は、主人をはじめ一同はどういう意味か分からずにぽかんとしていたそうです。
それをみた小堀様は、すかさず続けられたそうです。
「具体的に話した方が、良いみたいですね。入り口は、石段を積み、目の前に大きな山が立ちふさがっているように下から門を見上げるようにする。そこをくぐって門を通り抜けると、重苦しさから解放され、本堂に向かう階段を上って、門を振り返ってみると、門の屋根越しに京の街が見えるようにするのです。解脱を身をもって、体感できるようにするのです。門前の階段の傾斜と門の後ろの階段の傾斜の角度を変えるのです。もちろん、前は急にして、後は緩やかにするのです。それと、今は昔のように千年物の木材が手に入れるのが難しくなった。折角大きな山門を作っても、威圧感が出ない。だから、斗栱(ときょう)を多く使い文様美で威厳を作った方が良い」
私も、多少ながらお花とお茶の心得はありますが、小堀様のようにその形式美を新しく作る山門までに応用されるとは、思ってもいませんでした。
さすがに当世切っての風流人は違います。
大きな山門も、小堀様の手にかかっては、水盤に花をあしらうように、風景の中に溶け込むように描かれます。
しかしその時は、まだそのお言葉が思いもよらない結果を生む発端になるとは、気づいていませんでした。