短編小説『父の面影に医師は涙を流す』
「田中先生」
年配の看護婦が凍り付いた空間を破って、教え子に解答用紙を突き返すように一枚の書類を机の上に置いた。
何かを言いだそうとしたが、その場の空気を察したのか、言葉を飲み込んだ。
「失礼しました」
年配の看護婦の目が、教師から母親の目に変わった。
若い医者は、再び意を決したように目を見開いた。その目は充血して薄らと涙が滲んでいた。
「まず、腫瘍の細胞を取り出して、組織の内容を調べる必要があります。その細胞の組織を知ったうえで、化学的治療法いわゆる薬で腫瘍を小さくして行きます。通常でしたら小さくなったところで、放射線治療で腫瘍を完全に取り除くのですが、貴島さんの場合は胆管などに引っ付いている可能性がりますので、難しいです」
「薬でしか治らないということですか」
「色々と試してみて、貴島さんの症状に一番効果的なものを探していきます。副作用がある薬を使うことになりますので、色々と大変ですが。全力を尽くします」
こんなことを聞いて、どうしていいのか分からない。
今すぐ、裕司を連れてきて、薬を飲ませてあげたい。
こんなに頼りない若い医者に裕司の命を託すなんて出来ない。
裕司の体が、薬でボロボロになって行くのは、耐えられない。
今までの、思い出の中には裕司の姿がほとんど入っている。
これからも、一緒に思い出を作って行きたいのに。どうして行けばよいのか分からない。
「先生、本人にこのことは話した方が良いのですか」
若い医者は、じっと手元に持った三色ボールペンを見ている。
そして嗚咽を始めた。
涙が、自分の書いた火星人と海苔巻きの絵に染みを作って行く。
流れる涙を拭おうとはせず、空を見上げて言った。
「医師としては、当然患者さんやご家族には病状をきちんと説明しないといけない義務がありますが。私個人としては、言いにくいことですし、時として患者の傷つけることもあるので、全部を伝える必要もないと思います。」
そういうと若い医師は、言葉に詰まった。
長い沈黙があった。
「・・・・ボクは、言えなかった。そんな残酷なことは、言えなかった。でもそれで、後悔はしていません」
田中と呼ばれた若い先生の脳裏には、研修医になって自分の手術に立ち会うことに涙を流さんばかりに喜んでいた父親の顔が浮かんでいた。
田中は、自分の父親を貴島と同じ膵臓がんで亡くしていた。
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