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短編小説「坂本龍馬暗殺の真相(後編)」
「ドン」
爆音が近江屋全体を揺るがした。
一瞬間をおいて二階の窓から白煙が飛び出した。
それらは疾風のごとく河原町通りを駆け抜ける。
「何だ」
近江屋の軒先で待機していた新選組の大石鍬次郎は、咄嗟に槍を手に単身近江屋に土足のまま乗り込む。
二階に駆け上がる。
硝煙の匂いが混じった灰が部屋中に立ち込めている。
何も見えない。
天井からバラバラと煤が降ってくる。
どうなっているのだ。
行灯の橙色の光だけが不気味に揺れる。
「藤堂、中岡慎太郎を連れ出すぞ」
奥で服部武雄の声が聞こえる。
服部の声を聞きつけたのか、奥の部屋から谷干城と田中光顕が脇差の柄に手をかけ、今にも抜かんばかりに駈け出してきた。二人は陸援隊の中岡の部下である。
服部、藤堂平助が脇差の鯉口を切って、待ち構える。
その時後ろから龍馬の用心棒の藤吉が、服部を羽交い絞めにする。
服部は柔術の心得はあるが、このような強烈な羽交い絞めをされたのは初めてである。
元相撲取りであった藤吉は吉岡の体を上から覆いつくすように締め上げる。
身動きどころか息も出来ない。
首の骨が軋むような音を立てる。
それを見た谷と田中は、その脇をすり抜けようとする。
「手向かい致すな」
藤堂が割って入って、それを制止する。
「抜けば、斬るぞ」
日ごろの歌舞伎役者から抜け出てきたような若武者とは一転、鬼の形相。
額の傷が凄みを聞かせる。
二人は金縛りにあったように動けない。
火鉢の灰を頭からかぶった龍馬は、一瞬何が起こったのか理解できない。
炭の火の粉もはねたようで、髪の毛の焦げた匂いがする。
目が開かない。
音が聞こえない。
辺りは騒然としているのに、沈黙の世界である。
先程流していた涙のおかげで、闇が溶け出すように徐々に視界が蘇ってくる。
顔を袖で拭おうとしたが右手が焼けるように熱い。
手が上らない。
ふと横を見ると、火鉢の中に黒焦げになった右手首がある。
それは拳銃を握ったまま。
自分のものだとわかる。
立ち上がろうとするが、右手を支えに出来ない上に、腰が抜けたものか立ち上がることが出来ない。
「中岡、俺は手をやられた。起こしてくれるか」
左手だけで這うようにして、中岡慎太郎にじり寄る。
あろうことか、中岡は仰向けにひっくり返り、胸から血が噴き出している。
苦しそうな呼吸だけが聞こえる。
龍馬は悟った。
自分が藤堂を撃とうとした弾が、右手もろとも服部に斬られたために、狙いがそれて中岡の胸に当たってしまった。
龍馬は悔やんだ。
同志を拳銃で撃ってしまったことを。
しかもそれが中岡慎太郎であることを。
咄嗟にこのままでは生きて行けない。
腹を切るしかない。
脇差がない。
中岡に貸していたのを思い出した。
中岡が差していた脇差を引き抜こうとするが左手だけでは上手くゆかない。
仕方なしにそのまま刀身を抜いた。
そして中岡の血で濡れている柄を逆手に持ち替えて自分の腹に突き立てる。
その瞬間、今まで瀕死の状態であった中岡が龍馬の左手を急に掴んだ。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
何処かで聞いたことがある言葉。
そうだ、三吉慎蔵から聞いた言葉。
寺田屋から逃げる途中、もう駄目だと観念して腹を切ろうとした時に、三吉が俺に諭した言葉だ。
あの時のように力ある限り逃げよう。
あの時のように屋根伝いに逃げよう。
あの時はお龍がいた。三吉慎蔵がいた。
今は誰もいない。
恐怖よりも孤独に胸が締め付けられる。
龍馬は左手に持った抜き身の脇差のままだけで、はいつくばって窓の方に向かいだした。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
その言葉が頭の中でぐるぐる回り出す。
「俺には夢がある。まだ死ぬわけにはいかない」
ようやく目が慣れた大石が窓の外に逃げ出そうとする男を見た。
背を向けて逃げる者は斬る。
それは新選組の鉄則であり武士の掟。
大石は躊躇せずその男の背中の心臓部分の槍を突き刺した。
血しぶきが噴出し、床の間の屏風にまで飛んだ。
「大石、違う、それは龍馬だ」
吉岡の声で思わず槍を引き抜く。
栓を抜かれたように血が溢れ出す。
龍馬はそれでも外へ出ようとする。
最後の力を振り絞って顔を上げる。
満月だった。
「おりょう」
流れ星がひとつ、長い尾を引いて夜空を横切って行った。
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