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武蔵の微笑み(時代小説『宮本武蔵はこう戦った』より)
武蔵は思い悩んでいたのだった。
小次郎に勝てるという自信がなかった。
今まで数々の試合をこなしたが、全て勝つことが出来た。
己の思うままに体を動かせば、難なく相手を倒すことが出来た。
そこには、剣法も理合いも必要としない。
己に宿る野生のままに向かえば、容易に相手を倒すことが出来た。
体の奥から沸き起こる炎で相手を包み込んでしまえばそれでよかった。
戦う前に勝負は、すでに決まっている。
強いものが勝つ。それだけだ。
小次郎は、それを根底から覆そうとしていた。
小次郎は、絶壁のように目の前に立ちはだかっていたのだ。
武蔵は、心を無にして試合会場に向かう小舟に乗った。
船頭の使う櫂と小舟の動きを見て、ひらめいた。
矢張り思っていた通りだ。
船頭の使っていた櫂は、四尺一寸と少々長い。
小次郎の長い刀剣と比べても遜色はない。
木刀に比べて、かなり重量もあるが、重心がちょうど真ん中にあり、調和が取れている。
まだ、船頭の手のぬくもりが残る握りは、手のひらに吸い付くように納まる。
鏡のように光沢を帯びている握りを確かめ、一振りした。
水掻きに残っている水滴が、弧を描いて飛び散り、小舟が軽く上下に揺れた。
瞬間、電光が閃いた。
「これなら勝てる」
「船頭、すまないが頂戴する」
急いで、櫂の端の水平に伸びる出っ張りを削って小さくする作業に専念した。
桟橋に集まっている人々は、押し黙ってやり取りを見ている。矢張り、このお侍は気が触れたのだろうか。誰も理解できなかった。
「面倒をかけてすまぬ。島へ向かってくれ。遅くなってしまった。急いでくれ」
武蔵は、削る手を休めないまま言った。
頭の中のくすぶりが、取り払われた。
一瞬にして晴れ渡った。
一刻も早く、小次郎と戦いたかった。
勝てる。
今一度、船が沈み込む感覚と、その時の船頭の櫂を持つ手の動きを思い起こした。
それを体に染み込ませるのだ。
空を見上げた。吸い込まれそうな青。
そして武蔵は、微笑みを浮かべた。
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