短編小説『伝えることが難しくなったこれからの仕事の価値』
宮大工の世界は妥協の許さない厳しい世界です。
到達点と言うものはありません。
常に理想を現実に変えて行かなければなりません。
私たちの仕事の成果の判断を下すのは、百年先の人々かもしれませんし、もしかすれば千年先の人々かもしれません。
ですから、私たちは、今ここにある現実ではなしに、その先にある理想を現実に変えて行って、それらの未来の人々の鑑賞に堪えるものを作りだして行かなければならないのです。
しかし大御所様(徳川家康)の時代に入って、やたらと規制が多くなりました。
すべての物の価値が、お金で判断されるようになったのです。
目に見えないものまでが、お金という物差しで測られるようになったのです。
このまま行けば芸術やら建築などは安物紙で書かれた浮世草子と同じようになってしまうでしょう。
久事方奉行のところに交渉に行っていた大棟梁の主人が二、三日すると何処でどう折り合いがついたのか分かりませんが、工事の許可が下りたと、ほっとして帰ってまいりました。
主人らは早速準備に入りました。
私ら工事を任された遊佐組は、連日連夜の大騒ぎで準備に入っています。何しろ、工期は二年と決まっているのです。
主人は早速寝る暇もなく、工程表を巻物に書き上げました。何しろ、今まででは考えられない様な短い時間です。
一日たりとて無駄にすることは出来尚のです。
それは細かい字で、びっしりと隙間がないくらいに書かれています。
それを各棟梁らに順番に回し読みをします。
棟梁は自分の関係ある所を抜き出したり、書き加えたりして、自分の組の工程表を作って行きます。
これも、大変な作業です。
一人の棟梁だけが、これを作らなかったり、遅れて出したりすると、作業の全体が進行しません。
ですからそれぞれの棟梁は必死で書いてゆきます。
皆、主人と同じく寝る間を惜しんで、短期間で仕上げていきます。
つくづく考えてみれば、世の中は変わったものだと思います。
父親が、生きていてこの姿を見れば腰を抜かすほどに驚くでしょう。
昔は工程表や設計図などは一切なかったのです。
みんな大棟梁の頭の中に入っていました。それを大棟梁が、それぞれの棟梁に手短に言葉で伝えていきます。
棟梁らは、それをそれぞれの分担を分かち合って、頭の中に叩き込みます。
それを自分の手下の大工達に伝えるだけでよいのです。
書き物にしなくても、頭の中には、完成した建物の姿がありありと、描かれているのです。それで十分です。紙に書くような無駄なことはしないのです。
すべてがこれまでの経験と知識の基づいた信頼関係で結ばれていたのです。
それだけで十分だったのです。
それがどうでしょう、今では目に見えるもの、つまりはお金で価値が判断されるようになってしまいました。
世の中が変わってしまったのです。