宝塚の「生徒」という呼称の意味・歴史

 宝塚歌劇をよく見るようになってから、歌劇団の団員を「生徒」と読んでいることに驚きとちょっとした違和感を覚えた。その違和感の正体をあまり上手く言語化できないでいたが、先日図書館でこの本を読んで「生徒」という呼称の意味について改めて考えることとなった。

-永井咲季著『〈なつかしさ〉でつながる少女たち』平凡者、2015年

 宝塚歌劇団の団員は、宝塚音楽学校の卒業生で構成されている。もちろん音楽学校生の間は「生徒」であることは明らかだ。ただし予科1年、本科1年の2年間を終えれば音楽学校を卒業するとはいえ、その後も「研究科」なるものが続き、入団7年目までは成績評価がある。そして研究科は退団=本当に卒業するまで続くこととなる。この入団後も続く「研究科」(団員は在団年数に従って研究科○年生、研○と呼ばれる)や「生徒」という制度について、私はファン側が団員に親しみを持って作ったものだと最初は思っていた。しかし、それはれっきとして劇団が作った制度があり、その背景にはしっかりとした意図があるということが分かった。

 まず、一つ目は宝塚音楽学校(当時は宝塚音楽歌劇学校)の設立に関わってくる。1919年の音楽学校設立当時、男役の存在は、当時タブー視されていた「性別規範の超越」を意味するとして世間から厳しい視線が注がれていたという。音楽学校を設立し、学校組織の中に団員を置くことは、永井氏によれば「少女たちを好奇の目から守り、少女の精神なイメージを保持する上で有効であった。」ということで、音楽学校卒業後も団員を「生徒」と呼び保護する目的があったと思われる。

 さらに、当時は女が独立して働くことへの抵抗感があり、蔑視されていた女優(女優の代表格であった松井須磨子のスキャンダルもその一因)との差別化を図るために、団員を女優と呼ばずに「生徒」と呼ぶ必要があったようだ。

 確かに、以上のような風潮の中で宝塚歌劇が一般に受け入れられるためには、「生徒」という呼称を用いることが必然のように思えてくる。実際、その呼称に助けられたこともあっただろう。

 さて、「生徒」という呼称は現在でも、ファンの間で、そして劇団公式の発表や『歌劇』『宝塚Graph』といった雑誌で使われている。しかし、音楽学校ができた当時と今では社会は大きく変わっている。団員は「生徒」として守られるべき存在というより、一人の立派な舞台人として、社会人として、その義務や権利が保障されるべき存在ではないだろうか。特に宙組に所属していた団員が亡くなったことは、「教育」という名のもと社会人として当然の権利が侵害されていたことが浮き彫りになるのと同時に、「生徒」だからと団員個人の責任を問わない劇団側の姿勢も見られた。これが正しい守り方だったのか、私はまだ疑問に思っている。

 多くのファンは愛情を持って「生徒」という言葉を使っている。音楽学校生の頃から成長を見守り、スタートしての階段を登っていく姿を応援しているファンもいる。団員たちにとっても、自分が「生徒」であるという意識は強いだろうと思う。ただ、それを利用して団員を囲い込み、当然の権利を奪い取るようなことはあってほしくない。つまり、「生徒」という呼称自体には大きな問題はないにしても、それを取り巻く思惑や制度には少し意識的でありたいと思う。

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