ショパンと音楽と、エネルギーのコントロール
2年ぶりに、ピアノを弾いた。
心からピアノが好きで、だからこそ、追い求めすぎて苦しくもあったピアノ。引越を機にピアノを手放し、ピアノと距離を置いた生活になって、ちょっとほっとしていた。
まだ残暑が厳しい9月の太陽のもと、自転車を一心にこいでスタジオに到着した。雑念まみれの、そのまんまの状態で、数曲、ピアノを鳴らしてみた。
湿気が若干高めのしっとりした6畳くらいの一室は、あっというまに、ガヤガヤと荒んだ音で飽和状態になった。耳を塞ぎたくなるような居心地の悪さだ。
このスタジオのピアノは、グランドピアノではなく、家庭用に省スペースで置くことを想定したアップライトピアノだ。床と並行に弦が貼られ、打鍵とともに跳ね上がり弦を叩くハンマーが、重力により元の位置に戻ってくるグランドピアノと違って、アップライトピアノは弦が床と垂直に張られているから、そのあたりの構造やアクションも異なる。音量が異常に大きいのは、ピアノがまだ比較的新しくてハンマーのフェルトが固いからなのだろうか。低音は特に響き過ぎてしまう。
それでも、過去にはショパンコンクールに出る一流のコンテスタントだって、アップライトピアノで練習していたりするのだ。私も、ピアニッシモがひとすじの美しい糸のようにすーっと心にしみわたるような、ショパンのあの繊細な音にどうしても触れたくなった。
どんなタッチで弾いたらこのピアノは求める音を奏でてくれるのか。ただの一音でも、何も考えずに鳴らしてしまったら、それで音楽はあっという間に崩壊する。上から指を振り下ろすようなタッチでも、ハイスピードで鍵盤を下に降ろしきるのでもない。
ノクターンの単旋律を十分かつ繊細に歌い上げるには、鍵盤に指が触れた状態で、ただ一点の、一番いい音が鳴るストライクゾーンを狙って圧をいい感じにかける。単音で進行していくそんな延びやかな右手のメロディに対し、左手の伴奏は和音で進行していくから分厚い。単純に考えれば、音量は左手の方が大きくなってしまう。だから左手の和音進行は右手を決して邪魔しないように、角が立たないように、そっと、繊細に、右手のフレーズを丸く包み込むような音に制御しなければならない。
そうすると、それらのコントロールされた力はハンマーを伝って、ピアノの弦を微妙なニュアンスで鳴らす。その波動は、近くの他の弦も微妙に震わせたりしながら、ピアノの箱の中で豊潤な音色に織り交ぜられて、広い空間に開放されていく。この絶妙な味わい深さがショパンの醍醐味だ。
ノクターン第10番変イ長調op.32-2。特に華があるわけでもなく、ひたすら美しい中にもの悲しさや儚さの絵の具が少し混ぜられているようなテーマと、心の内に秘める強い思いが今か今かと膜を破って放出されそうな中間部、そして少し姿を変えて再び訪れるテーマの再現部により構成されるこのノクターンは、あまり演奏されることのないマイナーな曲だ。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ドビュッシーなど、何となく弾きたいと思った楽譜を持ってスタジオに入り、ひと通り何となく弾いてみるのだが、今弾きたい、と感じたのはやっぱりショパン。その中でも、ショパンの繊細さ、気品とそこに見え隠れする憂い、そして絶妙に美しく変化していくハーモニーを存分に感じることのできるノクターンというジャンル。特にその中でも魅かれたのが、若い時は見向きもしなかった、この変イ長調のノクターンだった。
一つの音楽に取り掛かるとき、まず楽譜全体をじっくり眺めて、作曲者の意図や構成を把握する。曲のクライマックスはどこなのか、同じフレーズでも1回目と2回目で作曲者はどういう変化をつけているのか、右手と左手のバランスは。ショパンはもう亡くなっているから、明確な指示がないところは、自分なりに「解釈」していく。
曲の山の部分にエネルギーを100%持っていくとしたら、それ以外の部分は、極論すれば、エネルギーをいかにうまくコントロールするかにかかっている。前述のノクターン第10番なら、最初2小節のコラールの後に続くテーマの部分は、持っているエネルギーを10%くらいにうんと絞って、コントロールしてコントロールして、十分に吟味された音たちを1音1音、大事に大事に鳴らしていく。
そんなエネルギーが十分にコントロールされている部分があるからこそ、エネルギーが最大限に放たれる華やかな部分は、心から解放されて天を仰ぎ見るような気持ちになったり、なんだか報われる気持ちになったりするものだ。仮に、はじめから終わりまでエネルギー100%!!なんて曲を聴いていたらどうだろう?熱すぎて重すぎて、とても聴いていられなくなるはずだ。10%の部分があるからこそ100%の部分が映える。逆も然り。そうやって、ひとつの音楽は美しく存在している。
人生も、同じだと思う。エネルギーがまだまだあり余っているからと言って、空き時間にどんどんスケジュールを詰め込んだり、何かに精力的に取り組んでしまったりしてしまいがちだ。でも、常に100%近いエネルギーでずっと進み続けていたら、いつかその反動で、五感を総シャットアウトしたくなるような、飽和状態になるだろう。
まだいける、まだやれる、とどこかで思っているときでも、大事なタイミングのためにそのエネルギーを取っておく、コントロールする、自分を整えるための方向に時間を使う。そんな生き方ができれば、人生ももっと自然で生きやすく、バランスがとれて、時にそのコントラストが面白くも感じられるのではないだろうか。