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ショートショート「ここではないどこか、六本木」


 都会はどこも空が狭くて閉じ込められそうになるが、この街は空が広い代わりに細くて丈夫なレールの網目に天井を支えられている。2023年に麻布台ヒルズが造られたのを皮切りに、六本木ヒルズを始めとする高層ビル群には、放射状に移動手段が設けられることになった。ジップラインというやつだ。
 しかし人々のほとんどは、未だ地下のような地上でせかせかと暮らしていた。森タワーのふもと、ルイーズ・ブルジョワの巨大な蜘蛛に羽根がないのも、すぐに天井にぶつかってしまうためだろう。彼女もまた、地上に置いてけぼりだった。
 さておいて私は、六本木の街を本当は翼を広げて滑空したいところ、あきらめてこの街のジップラインに身を委ねることに今日は決めた。壊れた未来の遊園地みたいな街。もうすぐ下校時刻だった。曇り空の夕刻に私は、固めた大事な前髪を風にすべて預けて、空を飛んだ。
 高いところから、少し低いまた別の高いところへ。便座に金属の登り棒が突き刺さったような頼りない造形のリフトにしがみつく。重力が私をぐんぐん運ぶ。コンタクトレンズが風で乾いて飛んでいきそうになるので、何度も忙しなくまばたきをする。
 このラインのゴールは森タワーの中層階にあった。さながら銃創のようなつるりとした入口が私を迎えた。リフトから降りると、目の前には数年来口を聞いていなかった父が立っていた。この街のジップラインを少しずつ拡張させるため、奮闘している父だった。父は六本木を、東京を、この国を、少しずつ拡張させる馬鹿げた仕事に精を出している。今日はもう昼食を食べただろうか?私は食べた。いつまでも私は、ハリボテの時間割に守られ、本当は休み時間みたいな毎日を消費し続けていた。
 突然の娘の来訪に目を丸くしつつも、父は何も言わずに私の命綱をそっと外した。地上を見下ろすと、空を見上げている人は誰もいなかった。父に謝ろうと思ったが、何に対してどのように謝ればいいのかもうわからなかった。
 地上には人々、それと一匹の巨大な蜘蛛がいる。彼女は実のところ、ルイーズ・ブルジョワの母親をモチーフとしているらしい。確かに母親というものは近くで見上げると巨大だが、このようにして見下ろすと、ずいぶんと小さく見える。置いてけぼりの、しかも孤独な虫だった。

 エレベーターで地上に降りて、スターバックスに行くことにした。初めてエスプレッソのダブルを頼んでみた。父はずっと何も言わずに、私の全てに微笑んでいた。砂糖を二人とも二袋ずつ入れて、未成年の乾杯をした。もうすぐ18になる。まだもう少し生きていくので、これからもよろしく。

 (1067字)

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