先生だったときの自分のもがきの歴史①【弱さは自分だけの強さになる】#658
おはようございます。
8/15 大阪に帰ってきました。娘と3日ぶりに再会し、たくさん遊びました。娘は興奮しすぎて、昼寝もなしに21時くらいまで遊んでいました。(ぼくが先に寝てしまいました) おこめさんです。
今日は昨日からゆっくりと書いていた
「ぼくが先生だったとき」の内面の奥にしまっていた葛藤やもがきについて、です。
正直ずっと自分の中では黒歴史というか、自分のネガティブな過去として持っていた部分です。
でも、そういう部分も素直に出すことで 繋がりを感じてくれる人が少しでもいるんじゃないかなぁ と思ったし、
むしろそういう弱さが自分の強みなんじゃないかなとも思えてきて(自分にしかないもがきや葛藤)
今日そんなことを書き出してみる記事にしようと思ったのです。
もしよかったら最後まで読んでいってください。
おこめさん→10年の公立中学校勤務を経て独立。公立学校を外側から支えるために、オンライン塾を設立・運営。子ども~大人までを対象としたライフビジョンコーチとしても活動。半年の育休を取得した朝活大好き2児のパパ
▼教員時代1年目
先生としても、社会人としても右も左もわからないまま
4/1付けで中学校に配属されました。
校長先生からの話で
1年生の担任ということを知らされました。
(個人的には1年目は副担でいろいろと見させてもらいたかった)
その日は一日いろいろな会議がありました。
「なんでもわからないことは聞いてね」と声をかけてくださるなど
先生方はみなさん優しかったのを覚えています。
理科の授業時数についてもこの日に決まりました。
1年生3クラスと2年生2クラスを担当することになりました。
(週に理科17時間 特道総3時間 で20時間でした。今考えるとこの時間を1年目で持つことは大変だっただろうなって思います)
そして、あっという間に17時をむかえ、自分の机に座るのですが、何をいつまでにどうやって準備したらいいのかも全くわからず、4/1は17時すぎに帰ったような気がします。(わからないので教えてくださいって言ったら良かったと思うのですがこのときはそういう発想もなかったのかもしれません)
4/2 からの記憶はほとんどありません。
なんか気がついたら入学式を迎えていた気がします。
最低限まわりの先生から言われたやらないといけないこと
(ロッカーや机のシール貼りなど)
をやってこの日になったのだと思います。
この日に子どもたちに対してどういう話をしたらいいのか とかもほとんど考えてなかった気がします。(今思えば最初の話ってすんごい大事なんですけどね)
しかもこのあとには、保護者の方との懇談会みたいなものもありました。
ぼくは「教育のプロとして精一杯頑張ります」みたいなことを言った覚えがありますが、これもこの日までに考えて臨んだというよりは何も考えていなくて、とっさに出た言葉でした。
そんなこんなでぼくの教員生活がはじまりました。
すべてがはじめてのことだらけで、何もかもうまくいきませんでした。
例えば、この学校では席を替えるときには くじ引きとかでは決めずに、立候補してくれた班長たちと話し合って決めていく形をとっていました。(配慮がいる子のことや授業中にうるさくならないように などを考慮していく)
ぼくの学生時代はずっとくじ引きだったので、この班長会議というものもはじめてでした。
班長をどうやって募るのか とか
班長は何をする人なのか とか
そういったこともまわりの先生に聴きながら自分の過去の経験や憶測も含みながら子どもたちに伝えて募ったような気がします。
だけど、班長会議をいつ実施してどうやってその席を発表するとか そういう細かいところも全然わかっていなくて、
ある日の特別活動の時間に班長たちを集めて、みんなの前で話し合いを進める、そんなやり方をしてしまいました。(もうこれ書きながら泣きたくなるくらい最悪な方法をやっていました)
案の定、それを見ていた班長じゃない子達は
「なんで自分がその席なんだ」
「自分はその席が嫌だ」
とかそんな声が飛んできます。
班長たちは申し訳無さそうにそれらの声に配慮しながら、決めていってくれてた気がします。(このときのやり方はホントに情けないくらいダメダメでした)
最終的に決まった席は お世辞にもいい席だったとはいえないものでした。
はじめての体育祭や文化祭でも、どうやってクラスをまとめていったらいいのかもわからず、(それをまわりに聞くこともできず)ずっと苦しかった記憶があります。
・何をどうやったら子どもたちとの関係性が築けるのか、
・クラスがまとまるってどういう状態を指すのか
・わがままを言っている生徒に対してはどういう接し方をすればいいのか
・子どもたち同士をつなぐのはどうすればいいのか
何もかもわからないまま、とにかく時間だけが過ぎていき
あっという間に1年間が終わりました。
この間、理科教員としてのはじめてもたくさんあって
中1、中2のそれぞれの授業案を毎日考えていました。
ほとんどすべての実験がはじめてのことばかりで、理科準備室のどこに何が入っているのかもわかりませんでした。(これまた先輩先生に聞くこともできなかったので、探すのが大変でした。)
実験の準備も片付けも相当時間がかかりました。
そもそも実験を含めた授業はどうやって進めていったらいいのかもわからず
何が正攻法かもまったくわからない状態で毎回の授業を自分なりに作っていたのを覚えています。(とにかく子どもたちが考えたくなるような授業は心がけていました。)
授業規律もどうやったら保てるのかわからず、とにかくうるさくなってきたら声を荒げる そんな感じだったと思います。
初任者研修で会う同期たちの話を聞けば聞くほど、
自分のクラスや授業のダメさ加減を嘆いていました。
(子どもたちが出張行くときに手を振ってくれたとか 寂しいって言ってくれたみたいなことを聞く度に羨ましかったです)
そんな試行錯誤の中で、たくさんの失敗経験を積み
こうしたら駄目なんだってことはたくさん積み上がっていきました。
▼教員2年目
そんな一年目を経てはじめてのクラス替えを経験することになります。
若いときにたくさんしんどい経験した方がいい
そんな言葉をどこかの偉い人が言っていたような気がして
ぼくがした決断は、このとき学年で一番しんどいって言われていた生徒を自分のクラスで抱える ことでした。
こうしてまた一年がはじまったのですが、
ここでは一年目での数々の失敗を活かしたいと思っていて
クラスのルールのことや、話し合いの仕方など
一つ一つが一年目のときの反省を活かしたものになってはいました。
ただ、それでもまだまだな部分がたくさんあって、はじめての宿泊学習の出し物に向けてもうまくクラスをまとめれませんでした。
クラスの出し物は劇になったのですが、その劇についてもグダグダでした。(そこから次につながる学びがあればよかったのですが、そこも・・・でした)
それでも自分なりにはずっともがいてもがいて、いいクラスにしたいってやってはいたのですが、
最終的には、一年目で味わったようなクラスになっていきました。
(まとまりがなく、むしろ担任のぼくとの距離が離れていくような)
失敗したからこそ次に活かす
ってことができていればかっこよくここでも書けるのですが、
自分の中でもこの2年目についてもオープンにしたくないようなそんな一年でした。(自分のミスで生徒が怪我をしてしまうってこともありました。)
▼ひとまずここまで
ということで今日はぼくの先生2年目までを振り返ってできるだけありのままを書いてみました。
こういうことって職場の同僚にも、友達にもなかなかオープンにできていなかったことで、自分にとっては隠したい過去の歴史でもありました。
だけど、こういう経験って実はぼくだからこそ味わえたのかもしれないなって思ってて、よくいろんなところで出会うスーパー先生たちと違って等身大の、しかも失敗の多い、そんなぼくだったからこそ、寄り添える人や共感しあえる人がいるんじゃないかなって思ったのです。
そう考えると、自分のこの経験は無駄じゃなかったって思えるし
それこそぼくがぼくらしく先生をしてきたことの軌跡が意味を帯びてくるなって思うのです。
今日はここまでにします。
明日は教員3年目からをまとめていきます。
もしよかったら明日も読みに来てください。
今日もここまで読んでくださってありがとうございました。
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