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「わたし」への過剰ポテンシャル


まずは不安がってる時間 もったいない
わたしたちの地球滞在時間は限られています
地球にわたしたちが存在させていただいている時間
これをいかにしあわせに豊かにつくっていかなきゃいけないかって
わたしたちのうれしい責任いただいちゃってるわけだから

「眠れぬ夜はAIさんと」より 山口智子さん

番組しょっぱなの、山口さんのことばに
「わおー!」とわたしの細胞が、ぷわあー!と開くような、渦巻くような、はじけるようなかんじがしたので、メモ書きしておく。

わたし、こういった手の、お悩み相談番組を結構みたり聴いたりするのがすき。
実際、いつの間にか、初めて会ったひとなのに、その人の悩みを聴いている、というシチュエーションになることも多い。
けれど、相手にとって的を射たことを言えた感覚は、一度もないといっても過言ではないくらい、対話は空回り。
いつもわたしは、「わたしの主観でモノを言ってるだけだなあ」と感じている。
うまくいえないけど、いかに自分が多方面から物事を捉えられるか、のゲームみたいな感覚になってしまっていて
けれどちっとも多方面なんて無理で
それどころか、完全に、自分の話、になってしまっていて
相手のことを忘れるというかなんていうか、包み込むエネルギー、が、パーっと消えてしまうかんじ、なのだ。
内にこもる、みたいな?

相手の立場になって考えてみる
が一向にできなくて
だけどそんな自分を受け入れたくないもんだからそれに必死に対抗して

この人の気持ちが少しでも楽になればいいな
そうなるためにはわたしは何を言うべき?
なにを話せばこの人に気づきが起こるのかな

という、愛とは程遠い思考というエネルギーが勝手にうまれるもんだから、とても不自然で不調和な、がんじがらめのパターン
(なのかなあ)


わたしはわたしに、多大なる期待をしては、そうなれないことに苛立ち、落胆し、けれどまた期待をしてしまう。

「人を思いやることができる立派な人間なはず」
「人の役に立てる人間なはず」

つまりは、「そのような人間じゃないのだよ」という観念、ビリーフを、強く持っているのだ。

まあ、そのどちらも幻想に過ぎないのだけど。



きのう
こたつに入ってテレビを観ている合間、ふとパートナーに
「いま、悩みってある?」と尋ねるということが起きて
(ほんとにそれは、起きた、という感覚で
わたしも自分で驚いた)

「そりゃあるよ」
という答えが返ってきて

その瞬間

「えー、どんなこと?話きかせてよ」

という、今までは確かに起きていた自動反応のようなものが、今のわたしに起こっていないことに気づいた。

そして

「そうなんだ…   その悩み、なくなるといいね」

そんな言葉がわたしの口からつらつらでていて、それをわたしは、観ていて、このなんだか不思議な感覚は久しぶりだなあーと思った。

パートナーは、「うん」と大きく頷き、わたしたちはまたテレビの中の猫(岩合さんの世界ネコ歩き)に見入っていった。

これはうちのニャン


わたしはついつい自分への過剰ポテンシャルが発動しやすい、のだと気づいた。

だから気づいたときには、内的世界に没入していて、つい深刻になって自我と同化して、
何にも問題ない世界にあえて問題をつくり
そして自分で解決しようと躍起になる

かんぜんにひとりあそび!
(そうなのです。わたしは幼きころ、ひとりあそびがだいすきだった)

目の前に誰かがいるのに、いつもひとりのような感覚になる。(いや、実際ひとりなのだけど)

わたしは、わたしがやってるこのあそびに、どうやら飽き飽きしてきたのではなかろうか。

そう
「飽きてきた」
のだ

たぶん。


それは、決して、わたしがコントロールできたわけじゃないし、ましてやだれかにしてもらったわけでもない。

それは
起きた
だけ

とはいえね

(わたしには)何にもできないのか?というと
そうではなくて。


だからこそ山口さんの言葉に
わたしの細胞はハッとなったのかもしれない


ただ努力はしなきゃいけないと思います
日々、細胞を澱ませちゃいけないと思うんです
心をピチピチ弾けるような感動を
やっぱりどうにか自分でもってかなきゃいけない

山口智子さん


わたしもそうありたいな…


コーヒーのシミ絵あそび

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