期待するココロ
やましたひでこさんの断捨離番組がすきでよくみているのだけれど、そういえば本て読んだことがないなあ、とよぎり、購入してみた。
むふう。
おもしろい。
なんていうか、やましたさんというお人柄、色?に少し触れることができたような(できないような、笑)
を通して、己を垣間見るような(じゃないような、笑)
で、断捨離⇨俯瞰力⇨自在力、と読み終え、今、自在力、をRe読しているところで
なんとなしに、読み返している箇所(目は文章を追っていくのだけれど、気持ちが、ピトっと、止まるような感覚)を、いったりきたり…
ザ〜〜ッと、思いが巡る。
わたしは、わたしに、「ありがとう」と、思っているっけ?言ってるっけ?
いや…
そこじゃないな…
なんだろう?
本をとじてめをとじて
みみをふさいでみる
それはほんとうに無意識のうちにおこっていること。
わたし、は、わたし、に、しあわせであってほしいと、ねがう。
そして、そのために、努力をする。
努力という意識はないかもしれない。それは、好奇心だとか、好き、だとか、なんとなく。そんな意識かもしれない。
"苦しみや生きづらさ"から自分を護りたくて、精神世界や哲学の本を読んだりした。様々なセッションを受けたりもした。気のむくままに、体験してきた。あまり数や時間という単位での表現は好みではないけれど、気づけばわたしの人生、半世紀が過ぎた。
わたしは、今、しあわせ、だろうか?
しあわせ、とは、どんなことを指すのだろう?
わたしは、相変わらず、日々、思い巡らしたりしている。ときに、苦しみ、をみたりもする。
何にも変わっていないのでは?
ン?それでも、生きている、ぞ?
何からも護るひつようなどなかったのでは?
生きている
ただそれだけが起きている
くるしみやよろこびは
やってきては
すぎてゆく
勝手に
おのずと
わたしが創造したわたしという自我
散々頼っておきながら、そして、散々助けてもらっておきながら、最近のわたし、は、「消えてくれないかな、自我よ」と思うようになっていた。わたしのなかのただしさで言い換えるなら、それもまた自我。油断も隙もなく自我は現れる。
鏡と鏡を合わせると、無数のわたし、が現れるように。
必死になって頑張ってくれていた自我が、アイスクリームみたいに、空間へと溶けていくような、「わたし」とひとつになるような…
ことばにすると何秒にもなるけれど
それは一瞬のような感覚だった。
わたしの人生、何度もこんなことがあるように思う。でもそれらは、毎回決しておなじではない。あたらしくてなつかしい、はじめましてでおひさしぶり、の、ヤツ。
時空をこえちゃう、ヤツ。
遊び。