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期待するココロ

やましたひでこさんの断捨離番組がすきでよくみているのだけれど、そういえば本て読んだことがないなあ、とよぎり、購入してみた。

断捨離/俯瞰力/自在力
いきなり豪華3本立て!

むふう。
おもしろい。

なんていうか、やましたさんというお人柄、色?に少し触れることができたような(できないような、笑)
を通して、己を垣間見るような(じゃないような、笑)

で、断捨離⇨俯瞰力⇨自在力、と読み終え、今、自在力、をRe読しているところで

なんとなしに、読み返している箇所(目は文章を追っていくのだけれど、気持ちが、ピトっと、止まるような感覚)を、いったりきたり…

 この人は「ありがとう」の一言を期待している。夫に。夫はそれを言ってくれるべきだ、と。ところが残念なことに、期待どおりの言葉は返ってこない。その一言があれば、随分とラクになるんだろうけれどそれがないから、不満をいっぱい抱えてる。
 その不満や我慢が、心の中で怒りに変わっている。「許せない!」という気持ち。そして、怒りの対象が夫という他者に向いている状態。
 では「ありがとう」という言葉をなぜ期待しているのか。相手に認めてほしいからですよね。では、どういうふうに認めてほしがっているのでしょう?「自分が相当な努力をして、あなたやその家族の役に立ったのだから、認めてほしい。」

中略

ある日、なにかの拍子で、期待した相手から期待した答えが返ってくれば、この人は満足するでしょう。ということは、解消は「他人頼み」。それまでは、ずっと我慢は山積みしていく…。

自在力/やましたひでこ

ザ〜〜ッと、思いが巡る。


わたしは、わたしに、「ありがとう」と、思っているっけ?言ってるっけ?


いや…
そこじゃないな…

なんだろう?


本をとじてめをとじて
みみをふさいでみる



それはほんとうに無意識のうちにおこっていること。
わたし、は、わたし、に、しあわせであってほしいと、ねがう。
そして、そのために、努力をする。
努力という意識はないかもしれない。それは、好奇心だとか、好き、だとか、なんとなく。そんな意識かもしれない。

"苦しみや生きづらさ"から自分を護りたくて、精神世界や哲学の本を読んだりした。様々なセッションを受けたりもした。気のむくままに、体験してきた。あまり数や時間という単位での表現は好みではないけれど、気づけばわたしの人生、半世紀が過ぎた。

わたしは、今、しあわせ、だろうか?
しあわせ、とは、どんなことを指すのだろう?

わたしは、相変わらず、日々、思い巡らしたりしている。ときに、苦しみ、をみたりもする。

何にも変わっていないのでは?

ン?それでも、生きている、ぞ?

何からも護るひつようなどなかったのでは?

生きている
ただそれだけが起きている

くるしみやよろこびは
やってきては
すぎてゆく

勝手に
おのずと



わたしが創造したわたしという自我
散々頼っておきながら、そして、散々助けてもらっておきながら、最近のわたし、は、「消えてくれないかな、自我よ」と思うようになっていた。わたしのなかのただしさで言い換えるなら、それもまた自我。油断も隙もなく自我は現れる。

鏡と鏡を合わせると、無数のわたし、が現れるように。


必死になって頑張ってくれていた自我が、アイスクリームみたいに、空間へと溶けていくような、「わたし」とひとつになるような…

ことばにすると何秒にもなるけれど

それは一瞬のような感覚だった。

わたしの人生、何度もこんなことがあるように思う。でもそれらは、毎回決しておなじではない。あたらしくてなつかしい、はじめましてでおひさしぶり、の、ヤツ。

時空をこえちゃう、ヤツ。

遊び。


自分がなにをやっていようとも、それはゲームだということを覚えておきましょう。自分の役割を遊ぶことです。もしそれが戦いだったら、そのときには戦いなさい。中心に定まったままでいなさい。深刻になる必要はありません。ただ遊ぶだけでいいのです!(OSHOトランスフォーメーションタロットより)



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