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哲学・日記・メモ あそびとアジール

●アジールの定義を、
「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」
とするならば(WIKIによる)、そしてそれらに序列をつけるのならば、私にとっては次の用になります。
①「無縁所」
②「自由領域」
③「避難所」
④「聖域」
●何と!
私にとっては「聖域」が4番目!
●普通だったら聖性を最上位としてもいいのだろうけど・・・アジールという限定が付くとそうもいかないのです(「聖なるもの」に対する考え方とかスタンスにの取り方の差も大きく影響すると思います)。
●じゃあ何で「無縁所」を最上位にしたのかって?それはそれが「既存のしきたり・掟・道徳・ルール・法をたちきった場」であるから。のみならず「それでなお無秩序になる事はない場」でもあるから。
●そういう意味では「無縁所」とは「あそび」の様態に重なるといってもいいかもしれません。                         ●いや、むしろ「あそび」と重ならなければ、その「自由」さとは「既存のしきたり」の内部に庇護され絡めとられた疑似的な「自由」にすぎないであろうから。(「自由領域」を②としている理由でもあります)。
●あるいはまた、「あそび」は「聖なるもの」と隣接するけれども、近付けば近づくほど、その溝の深さは深く感じています。
●「聖なるもの」は「崇高」の感情としてこの世界を超えていこうとする。しかし「あそび」はこの世界の外部を意識しつつも世界を超え出る事を望まない・・・。
●このことをよくよく考えてみると「あそび」とは「この世界とその向こう側」の間隙≒境界にて「あそぶ」のであって、この世界に立ち戻る」のでも「この世界を超え出ていく」のでもない。その間隙にあって、間隙である事を自己目的として「あそぶ」のである。
●このことは私にとってはこの世界の向こう側にある世界を想像し言及し教説を説く事(宗教的な言説)よりもずっとずっと「神秘」なことである。
●つまり私にとっては「あそび」こそが「神秘」。
●「あそび」は世界の外部の神秘を享受するのではなくて、「あそびそのものが神秘でもあるもという事を、自己言及的に問う事」でもある。
●そしてその神秘を問う事こそが「アジール」の本質であるのではないか?とするならば私にはただその一点にだけ関心があります。そういう関心に裏打ちされた限りで私は「アジール」にとっても関心があるのです。

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