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イワナ、山に登る~人生半世(反省)記

「山岳部ではイワナの産卵が見られるんだわ」

高校に入学したての部活動紹介の際、顧問先生が魅惑的に放ったこの一言で、将来さけますふ化場のおじさんになりたかったぼくは、幼少期から習っていた剣の道を捨て、あっさり山岳部に入部しました。

沢遡行や大雪山縦走の数々、インターハイ地区大会で男女初優勝など果たせるも、結局、イワナの産卵は見られませんでした。

そこで、大学時代は、知床半島でイワナの研究に夢中になりました。
イワナというのはオショロコマのことです。
当時は水産分野もバイテク全盛期でしたが、自分の興味や信念を貫いてフィールド基礎研究として河川生態学や繁殖行動学を専攻しました。研究室はもとより、北大院のお世話になりました。

就職先は、農業改良普及員、水産業普及指導員などもありましたが、転勤がイヤで、顔の見える小さな地域を希望していました。

ネパールにて開発援助ボランティア(NGO活動)をした卒業後、農業技師として奉職、すぐに深刻な家畜ふん尿処理問題による河川汚染事件が起こりました。農家さんのためにも、河川のためにも何とか解決策を見つけねばと先進地を飛び回りました。当時のJAや普及センターの皆さんと試験を重ね、土壌菌による好気性曝気(ばっき)処理に辿り着きました。

毎年7月のヤマメ釣りが解禁になると、まるで宝庫のような農村地帯の川で、心から銀鱗と戯れました。
農家さんたちと、毎年8月第一日曜日、地域の川の清掃を始めました。おかしな職員だったろうと思います。当時はそんな人、いなかったから。
水と農業を見つめました。

農業振興センターへ派遣、輪作体系の把握改善と土づくり対策のため、約2,500筆もの農地のカルテづくりを目的として、当時としては国内先進事例であったGIS(地図情報システム)が農業用に導入されました。
道立農業試験場や(株)富士通からの指導や支援も仰ぎ、米国NASAから提供いただいたランドサット衛星画像から圃場(ほじょう)ごとの収量予測や土の状態をも解析できるようになりました。
文科省プロジェクトにも採択され、人工衛星と土壌分析結果から大規模畑作農業地帯の在り方を見つめました。
ぼくはいろいろ見つめるのがクセです。

地図情報システム

30才にて企画財政課、拝命。総合計画、起債、まちづくり、防災、環境公害、統計、情報などに関することを担当。
やがて、本人の意思とは関係なく、北◯道庁職員となりました。辞令とはおそろしいものだと思います。全く笑えない、紙切れ一枚とはよく云ったものです。主に地域づくりリーダーのプログラム育成塾や交流会の開催、特に堀知事最後のオール北海道運動の一つであった「北海道遺産構想」の推進に、満員電車と人混みの苦手な都会である札幌で、同期の仲間たちと心と身を砕いて頑張りました。
道都・札幌から各地域を見つめ、道内に広く多くの交流機会が持てました。

享年34才の亡き父の影響から少し悩み、自分を見失いました。人生を楽しめなくなりました。誰だって、人生に一度や二度あることでしょう。
生き急ぎ、どうやらがんばりすぎていたようでした。ここは大きな反省点、気付きです。
森進一さんの「襟裳岬」の歌詞が沁みました。
ここで人生のレールを最初の組織から卒業しました。

網走の山岳会に所属し、学生時代には120日以上の山行をしていた趣味の登山は続けていました。

冬季利尻山(Fさん撮影)


地域の開拓農家さんたちから逸話などを聞いているうちに、標高は低いものの藻琴山(屈斜路カルデラ一帯)の存在がどうやら自然豊かな道東地域の水や農業気象、土壌要因に影響しているのではないか?、網走市などにとっては昭和30年代から重要な水源地でもあり、実学主義の大学精神とも一致するのではないか?などと、奉職中からロマンを胸に温めていました。

そこで、母校の大学研究室から指南と協力を仰ぎ、優秀な学生さんやOBOGを付けていただいて、藻琴山稜線2,050m、大空町東藻琴地区及び弟子屈町川湯地区に、気温と地温の観測体制を張り巡らせました。
5年間に渡る調査研究で、藻琴山稜線登山道に咲く高山植物の種類や動き(フェノロジー)、気温地温などから8本の学位論文と、環境施策の一つである山のバイオトイレ設置などの成果を地元自治体の協力と理解で得られました。
水の動きに着手できなかったことは反省です。

自記録気温測定装置ロガー設置風景


網走を拠点に、これら調査研究の非常勤講師、知床や網走のガイド事業、特に大手旅行会社の団体ツアー藻琴山ガイドやプライベートプログラムと、楽しく自由に充実して過ごしていました。
同じ大学一期生である親友のとのさん、M山さんたちが、そばで支えてくれていたことは、うれしかったです。

もともとイワナ好きだった自分は、いつの間にか、土づくりや地域づくりの視点や経験を得て、山に登っていたことに、フト、気がつきました。
煙と何とかは高いところが、やっぱり好きなのかな。

本来ならば組織の定年後の憧れであった日本百名山・斜里岳小屋(清岳荘 標高670m)の常駐管理人も20年早く仰せつかりました。
全国から訪れる約6000人もの岳人さんとの出会いと交流が魅力です。

6~10月の夏山シーズンを嫁さんの後方支援をもらい勤め上げた後のこと、突然、残念ながら、嫁さん方の家族の事情により、目的の一つだった藻琴山のわかりやすい花図鑑の作製を含めて、これら志半ばで九州へ転居することになりました。

イワナは、一旦、生息地を南下することに決めたのです。
野生のイワナたちは、その一生を河川だけで過ごすものから、降湖あるいは降海型となるものもいます。
後者は、体長およそ50cm以上の大型な個体となって再び河川の上流域へ還ってくるのです。

「置かれた場所で咲きなさい、泳ぎなさい」
水の人なのか、山の人なのか、農業の人なのか、体験観光の人なのか、森の人なのか、自分でも、よくわからないままでいます。
イワナは、最も冷水を好む渓流魚であり、暑さには滅法弱いのですから、九州の気候は大変です。
きっと、いまは忍耐と寛容のときなのです。

頭を難しく使うよりも五感を大切に、九州の山々を訪ねたり、照葉樹林の森の中で子どもたちをわいわい楽しくガイドをしたり、さかなや生きもの好きな人たちと、新しいふるさと九州で交流したりしています。
北海道との違いや共通することなどを「俯瞰」しています。
ここが自分の持ち味です。
翌冬から春、子どもの頃からの夢だったサケふ化放流活動も国内遡上南限の川でしてみたいです。
こちらの人たちも、とても面倒見が良いです。
仕事以外に、好きなもの、コトがあれば、いつでも、どこでも人はつながれるのですね。

「イワナ、山に登る」。
粘土のように泥臭く、頑固でしなやかで、力強くこねられても変幻自在で創造的な石(意思)でありたいです。不器用不細工でも構いません。
北海道では、「なまら、はんかくさい人でないかい?」と呼ばれる類だと自覚しています。

それでも一貫一言にすると目指しているのは「ツーリズム」という言葉が、自分の中でのキーワードなのかな?と思うことがあります。
どんな人の尊い生き様にも当てはまる言葉ではありますが、それは自然や農山漁村の故郷を舞台に、地域に根ざした平和な交流機会を作り続けることに尽きるからです。

今西錦司博士(1902年1月6日-1992年6月15日、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる)は、科学技術と自然哲学の両輪走行を大前提に、次のように語っています。
「客観的な精神としての自然」に耳を傾けたなら、「私はずっとここにいましたよ。ずっと人類が、こころを開いてくれるのを待っていましたよ。」と何世紀にもわたって、ずっと耐えてきた自然に出会う事ができると思います。そのあいだに、私たちは森を開き、汚水を流し、空を汚してしまったが、それでも昔と変わることのない優しい声で、ふたたびこころを交わすことができると思います。
 そのとき、私たちはなにをしなくてはならないかがわかる。
なつかしいマイハート[故郷]への復帰運動、自然哲学は、その準備の一つであるでしょう、と。

イワナが山に登れたのは、この長文な駄作をお読み下さっている皆様、恩師、上司同僚、先輩後輩、友人知人をはじめ地域の多くの方たちとの交流の恵み、家族の支えがあるからこそと、心から感謝しています。
ぼくの言動で不快に感じたり、傷ついた方もおられるかも知れません。この場を借りてお詫び致します。ほんとうにごめんなさい。
生きるとは恥と反省の連続かも知れません。
それでも、心の中にはいつも美しいイワナがいてくれます。

1日頑張れば、寿命が1日近くなります。
悲しく、切ないですが、それが真理です。
やっぱり決めたままに生きてゆきたいと思います。

お父さんお母さん、育ててくれてありがとう。
嫁さん、いつも側で支えてくれてありがとう。
今日に生きていて良かったです。

個人的な長文駄文を最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。
お目汚し、お許しください。

(2015年9月記)

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