【知床から箱庭の島へ⑦】出航
▽2003.6.29 sun いよいよ渡航の朝。
ひどい曇りなり。
この日の行程。(日本時間) 9:30根室港出航-10:40「N43゜28' E145゜46'」通過点-14:30国後島古釜布沖(入域手続)-20:30色丹島アナマ沖
少し緊張しているぼくは、バスで根室港に向かう前から「酔い止め薬」を飲む。 こんなに長時間、船に乗ることは初めてだし、逃げられない閉鎖的な環境に閉じこめられ続けるのかと思うと、心が ひどく弱気にぐったりになってしまう。
前夜、テレビのロードショーでやっていた「タイタニック」を初めて観て、船はこわいよナ…と思ったせいもある。
港で、しばしこれからの命を預ける「コーラルホワイト号」と対面。
船なので、もちろん女性名なのだろうなあ。
たくさんの人たちに見送られながら、乗船、出航。
船内には、喫茶室や食堂、シャワー室などがあり、その階下に二段ベッドを中心とした客室があり、思っていたよりも快適、快適。自動販売機もあるし、ところどころ余ってるコンセントもカメラの充電などに使えそうだ。
何より船長や船員の方たちは、みんな働き者で、気が良い人たちばかりで、心地よい。
しばらくデッキで寒く白い天気の中、潮風に吹かれてみるも、何も見えないし、つくづくヒマである。ベッドに行って横になると、揺れとエンジン音が心地よくなって、そのまま寝てしまった。
そんなぼくが夢を見ている間、船に並んで泳ぐ「イルカ」が見られたらしい…
船内で、仲間となる訪問団の人たちといろいろな話をすると、顔見知りの人がずいぶんといることに驚いた。というのも、この北方領土問題対策には道○OB関係者が、ずいぶんといる。
そして、なんと、こないだ試写会を見た、あの穂別町「田んぼdeミュージカル」の実行委員会のHさんもいらっしゃった。
Hさんは、あの悲惨な「アッツ玉砕」直後にその戦地へ赴いたのだという。占守島(しゅむしゅとう)へも行っていたらしい。
元島民の方たちの話をいろいろと聞いていると、みな、こういうことになる。
●「壮絶な人生だった…よく今まで生きてこられたものだ」、と。
終戦直前に当時ソヴィエト軍に追われた島の人たちは、持つものを持たずに命からがらで、北海道へたどりついたらしい。
しかも、サハリン(樺太)を経由したり、過酷な収容所に入れられたり…
その重たい言葉たちを聞いていると、家族のことや目の前の衣食住のことだけでも、想像を絶する想いがする。
また、満州やシベリア抑留をされた方たちと異なり、日本の領土との認識となっているため、その後の恩給などにもずいぶんと差があるということらしい。これも問題である。
初めて間近で見た北方領土は、海上から見る国後島の古釜布(ふるかまっぷ)の街並みだった。
港からロシア関係者を乗せた船がやってきて、こちらの船に乗船し、船内で事務打ち合わせなどを行なっていた。
その間、やはり似たような発想をする人もいるようで、ちゃんと釣り竿を持ってきている人もいるではないかーっ!
停泊中に、40cmくらいの大きなカレイを釣っていた。
この日、船は穏やかな海と白い濃霧の中、予定通りの時刻に、色丹島の沖、穴澗(アナマ)湾内にて錨(いかり)を 下ろした。