藻琴原野 第四話 山頂
ぼくたちは登り始めてきっちり40分に先客のいる頂上へ立っていた。
「こんにちはー!」
「はい、こんにちは、お疲れさまだったね。今日は良いお天気だねえ」
先客の方は慣れたように心地よい挨拶を返してくれた。
一方、クミちゃんは初めて頂上までやってきた感動と納得のいかない複雑な顔をして、頬の汗をタオルで押すように拭いた。ぼくはバンダナを外した。
やはりと云っていいものか、ぼくの記憶の一致は的中してしまった。 頂上には歌碑はもちろん、祠どころか神社らしきものもなかったのだ。
クミちゃんは頂上への最後のずりずりと滑る斜面を懸命に手を宙にひらひらとさせてバランスを取りながら頂上のその碑に真っ先に立ち向かったのだが、そこ にはクミちゃんが大好きなおばあちゃんから伝え聞いていた”湖(うみ)の鷹、 樹海(もり)の鷹となりにけり”の歌は書かれていなかった。 碑の後ろ側もぼくも一緒に添って覗いてみたが何か細かな昔言葉がカタカナと共に刻んであって、首を傾げるクミちゃんにそれは何か人の功績のような意味のような内容のようだよと伝えた。碑には「山中源吉師之碑」と記されていた。 確かにこの狭い頂上にもうそれらしきものはなかった。 人の匂いの残るのものを探しても、数年前に航空写真撮影に使ったのであろうか、 対空標識の木杭しかなかった。
先客の人がリンゴをむいて食べていた。 太陽の光はぼくたちを優しく温めてつづけてくれていた。 羽虫がブーンと音をたてて飛んでいった。 それにしても一体どういうことなのだろう。 果たしてこの頂上には神社か祠、そして歌碑などがあったのだろうか、とぼくはそのことが自分が今ここに立ってみて、ぼくの癖でひどく気になっていた。
クミちゃんは少しがっかりしたようではあったが、あの広場から稜線上を歩き まだ裸のミヤマハンノキやダケカンバに囲まれた心地よい回廊の路を、紫陽花のようなオオカメノキの白花や身の丈くらいの満開のチシマザクラを愛でながら、 地中から飛びして立ち誇っている勇敢な屏風岩をひょいと越え、そしてこの頂上までやってきたそのことに次第に満心してきている気分になっているようだった。 クミちゃんは元気にずっと意気揚々ケラケラとやってきたのだ。
そのクミちゃんの初めて立った1000mの地からは、真下に屈斜路湖が大き く大地にはめ込んだ鏡のようにきっちりと蒼面をたたえ、湖の真ん中には中島がどっしりと浮かんでいた。この屈斜路湖ひとつでさえ視界からはみ出してしまう。 釣りでもしているのだろうレジャーボートが白い線を糸のようにつけていた。 それはもしかすると最近手に入れたと云っていた滝本の釣り用ボートかも知れないナと思った。 その右向こうには雄阿寒岳が台形の雄姿を見せ、となりには白煙を上げている雌阿寒岳が少し機嫌が悪そうにどっしりとして望まれた。 その右、つまり西側にはごつごつした美幌峠と、霞んで大雪山までが白く望まれた。 クミちゃんは屈斜路湖から反対の北の方を振り返り、そして見下ろし眺めた。
「うわっ、うわっ!」
クミちゃんが驚いているのは、東藻琴の末広地区にある芝桜公園のピンク色に 対しての表現のようだった。まさに今、その10haの芝桜が満開を迎え、その開花期間だけで20万人もの観光客の人たちの心をとらえているのだった。 この大地の緑が旺盛に活発に成長している季節に、空気中には命輝く森からフィットンチッドが放出され、遠くの景色はより蒼く霞むのである。そこへ芝桜公園のピンク色はまさしく一種人工的と云えるような色彩を艶やかに広大な風景の一 角を演じ、浮き出しているように見えているのである。 広い牧場は新鮮な緑を醸しだし、まだ作付けしたばかりの畑は黒と茶色の土色をだんだらに見せていた。 そしてその向こうにクミちゃんやぼくの住む街並みが懐かしく寄り添っていて、 キラキラと小さくまとまって輝いているのだった。 その上を能取湖やオホーツク海の優しい青が空の青と溶け込んで、水平線と空が仲良しになっていた。
クミちゃんはうまく言葉が見つからないようで、少し滑稽であった。 一通り、クミちゃんがさらに斜里岳や知床連山までを一周ぐるっと眺めてから、 ぼくはクミちゃんに景色の覚え方を教えてみた。
「クミちゃん、いいかい?景色の覚えるとっておきの秘訣があるんだよ」
「どうやって?写真を撮るんじゃないのン?」 「まずね、こうして覚えたい景色の方をきちんと向いて立ってごらん」
「うーん、そうだなあ、どっちを向こうかなあ」 クミちゃんはこの360度のパノラマすべてから一方を選択するのに少し困惑している様子であったが、とりあえず自分の街の方向をえいっと見定めたようだ。
「まずはね、その景色をしっかり覚えるように視るんだ」
「うん、わかった」
しばらく凝視していたクミちゃんは、もういいかな、大丈夫だよねというような顔をして笑った。 「それからね、そのまま眼を閉じて瞼の中で想い出してごらん」
「うーん、真ん中辺りは何となく、その左の方はなんか忘れちゃったみたい」
「そうしたらね、また眼を開けて、その忘れちゃったところを確認するように また視てごらん」 「うん、わかった」
クミちゃんは素直な子だ。
「それを繰り返すんだよ、そうしたらね、ずっとねクミちゃんの眼から今視ている景色は一生消えないよ」
「はーい!、はーい!」
クミちゃんは元気良く片手をあげて返事をした。 クミちゃんの黒くまだあどけなさの残るまんまるい瞳には、緑と蒼たちの風景とその真ん中にピンク色が生まれ始め、やがてみるみると飾られていった。
クミちゃんはそれから少し不安げな顔をして尋ねる。
「ホントウに大丈夫かなあ、私、今夜お家に帰って寝たら、あしたには忘れちゃっているんじゃないかなあ」
「クミちゃんね、今、もし不安だと思うんだったら、もう一度やってごらん、 そうしたら、そうだなあ、明後日までは大丈夫だよ」
ぼくはからかって大きく声を出して笑った。
先客の60代くらいの物静かな男性が、ぼくたちのやりとりの光景を観て微笑 んでくれていた。 湖からの上昇気流にのって空にカラスがまるで鷹のように勇壮に浮かんでいた。