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【知床から箱庭の島へ⑨】墓参

小雨の中、『日本人墓地』を訪れた。 木の囲いの中にでこぼことなった草地にあり、地元のロシア人の方たちが日頃の手入れをしていただいているとのこと。
墓標(石)がないお墓も多々あるも、みな北海道の方角を向いていることには変わりないのだろう…。 静かな時間が流れているような、でも止まっているような、そんな気がする。

昨年2002度の交流訪問団が建てられた墓標前にて、みなで黙祷(もくとう)をささげる。 この島の地でアイヌ民族の酋長だったとの方のお墓もあり、墓標には十字架が印してある。 ロシア正教を信仰されていたようだ。

北方領土復帰期成同盟様サイトより借用

1875年、樺太千島交換条約を締結した際、日本は全千島(占守島(シュムシュ)~ウルップ島までの18の島々)を ロシアから譲り受け、樺太全島(サハリン)を放棄した。(当時は実際的には民族は混在していた)

母校の創設者でもある榎本武揚氏が調印したこの条約文の事実が、択捉、国後、色丹、歯舞の北方領土が一度も他国の領土になったことのない日本固有の領土であることを示しており、当時すでにこれらの島々がロシアから譲り受けた千島列島("クリル諸島"The Kurile Islands)とは明らかに区分されていたことがわかるも、ここの解釈を発端にして、歴史は今に北方領土問題を生じていくことになる。

~その後、樺太については、1905年日露戦争を終結する際のポーツマス条約によって、樺太の北緯50度より南部分をロシアから譲り受け、第二次世界大戦の終結にかかるヤルタ協定、その後のサンフランシスコ平和条約にて樺太の全島をロシアへ引き渡すことになる。(ヤルタ協定時の文章には、「樺太南部及びこれに隣接するすべての諸島がソヴィエト連邦へ返還されること、千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること」と表記がされている。

●つまり、ぼくたちの立場からすると北方領土の四島は、4回の国境変更があっても日本固有の領土なのです。 さらに、このソヴィエト軍は1945年の8月9日、日ソ中立条約を無視して対日参戦をし、日本が降伏した後も攻撃を続け、 8月29日から9月5日にかけて、北方四島を占領しました。敗戦後の日本には国力などもなかったため、不法に占拠されたままになっているということです。

この1875年時において、海獣狩猟や漁労を中心に生活や交易していた「千島アイヌ」の人たちを、この色丹島に強制的に集めたらしい。千島アイヌの人たちは、以前よりロシア正教を信仰したらしい。当時、ロシア語での名前をも持っていたとも云う。

しかし、色丹島での気候や生活が合わずに、多くの千島アイヌの方たちが、この色丹の地で命を落としたのだという。
その後、第二次世界大戦後から1948年の間に、千島アイヌの人たちは北海道などへ戻されたのだという。

 ●この千島列島で、日本側も、ロシア側もそれぞれ先に千島アイヌの人たちが生活していた歴史的事実を承知しておきながら、もっともこの島々の歴史の上で翻弄(ほんろう)され、悲しみを背負ってきたのは、千島アイヌの人たちであったのだろうと思う。
ロシア側の担当者は、誠実に次のように語ってくれた。
「この島から北海道へ渡った千島アイヌの人たちのその後の足跡、今の暮らしの情報が欲しいです」、と。

ー千島アイヌの方のお墓ー


ー日本人墓地の墓標ー

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