藻琴原野 第七話 句碑
ぼくたちの車が道道102号線へ飛びでた。
快適なアスファルト道である。 天原さんもそのまま小清水峠の駐車場までゆくことになった。 本当のところを訊くと、ぼくたちと同じく峠から登って銀嶺水に下り、車を回収 したかったようだったのだ。天原さんは遠慮深い。
風が心地よく、入ってくる。 ぼくは無造作にポケットを探っていた。 煙草を吸いたいのだが、あいにくトランクに積み込んだザックの中に入れてしまっていたことに気づき、しばしの我慢をぼくはすることになった。 隣のクミちゃんは少し疲れたのか、今にも首が折れそうな格好で頭をぶらりんとさせてコックリしだしていた。
峠へ向けて走っていると阿寒国立公園と看板が現れ、右側に続いていた電柱や電線が一気にそこから地球を突き刺さってくぐるように地下に埋没して消え、一 段と北国の針広混交林の景観が壮大に広々と映るのだった。
その間、天原さんは冬の藻琴山の話をしてくれた。 おそらく昭和40年代頃の話のようだが、その当時では夏山で年間3万5千人、 なんと冬にも1万5千人の登山客、スキー客があったらしい。 冬山としての藻琴山は、昭和36年に国設スキー場の指定を受けた道東唯一のスキー場だったのだそうだ。まさしく知る人ぞ知ることである。斜面が緩やかで、 特に雪質が良くて、平均斜度が20度、樹氷帯を滑る快感はこたえられなかったと云う。 確かに今でも藻琴山は冬山の登山対象になっているけれど、今のそれの多くは峠からや峠手前の小清水高原キャンプ場からの沢を利用する登山客が週末に数パー ティといったところか。過去にいかに藻琴山がスキー場として多くの人たちを楽 しませてくれたのか頭が下がる想いだ。 それからぼくもお返しにと云っては何だが、少し前まで国設スキー場を利用してダウンヒルスキー大会があったこと、その国設スキー場の指定も解除になるんですよと天原さんに伝えた。今の藻琴山の冬山登山のことについても会話した。 クミちゃんのお母さんが冬山登山だなんて危ないわよねえとハンドルを握りながら真っ直ぐ前を見てため息まじりに云った。
ゆく先の道道の向こう先が空になっていきぐんぐん近づきだすと、もうそこは 峠だった。 右折して駐車場へのくねくね道を進みだすと、ゴンとクミちゃんは窓に頭をぶつけて起きあがった。いててと頭を押さえるクミちゃんの向こうに法面の陰に残雪 が佇んでいるのが窓から見えた。
あともう一つのカーブで駐車場というところの手前でぼくたちが車の中で仲良くみんな一緒に左側に力をうけていたとき、天原さんがここで停めて欲しいと云 った。
「どうもありがとう、わたしはここで降りますから、今日は本当にあいすいません」
天原さんは丁寧にお辞儀をし、ゆっくりとストックから順に車を降りだした。
「駐車場までもう少しですよう、天原さん」
クミちゃんのお母さんが止めようとしたが、天原さんは最初からそういうことを 決めていたようだ。
「ここで佇むのがいつも好きなんですよ、ホエッホエッ」
ホエッホエッっと笑う天原さんがぼくたちは自然に好きになっていた。
天原さんは何もないこのカーブ地点で、法面の上からハイマツがのぞき、枯れ草とササだけの道ばたの側溝をぴょんとまたいだ。
一台の家族連れのワゴン車がうおんと力がなさそうに通り過ぎていった。
「あれ、なんか書いてあるよう、うまく読めないけれど”なんかのみち”って」
クミちゃんが見つけなければ、実に目立たない看板がそこにあった。 天原さんはすでにそのササに囲まれた径を進んでいっていたので、クミちゃんと ぼくも急いで天原さんの背中の後を追った。 ほんの30mほど走ったら、そこに古ぼけた石が苔と共に静かに時間を止めて建っていて、天原さんが沈黙して佇んでいた。
「天原さん、これ、もしかして歌碑ですか?」
ぼくは、少し興奮してそう尋ねた。
「そうだよ、正確には句碑じゃな、唐笠何蝶さんという歌人がこの藻琴山の絶景を詠んだ句碑じゃよ」
天原さんはその句碑のたたずまいのように静かに応えた。 「もしかして、湖(うみ)の鷹 樹海(もり)の鷹となりにけりって書いてあるんですかあ?」
クミちゃんはびっくりしたような声をだした。 天原さんは目をまんまるくして、あれまあ良く知っているのう、とクミちゃんを眩しそうに振り返りうれしそうに眺め、またホエッホエッと笑ってくれた。 昭和31年9月30日に除幕された藻琴山の大切な句碑じゃよ、と天原さんは優しく教えてくれた。
クミちゃんとぼくは目を合わせて、うれしそうに笑った。 クミちゃんがおばあちゃんから聞き伝えられ、ぼくたちが気になって探していた歌碑は、あの1000mの頂上にではなくて、こんな道路の側に人目をはばかるようにひっそりと存在していたのだ。 こんなところにあったのだ。
天原さんはそんなぼくたちを不思議そうに眺めていた。
あのう、と、ぼくはその勢いで尋ねてみた。 「あのう、天原さん、藻琴山の頂上に神社か祠があるのをご存じですか?」
ガサッとどこかでエゾシマリスが近くで駆けだしたような気配がした。