人生はやはりクソゲーだと思うのです(小並感)!
こんにちは。okknです。
夜中に記事を書きたくなるのは何なのでしょうか?
よくわからないですが、そういう感じの人です。
定番の #自己紹介 をしようと思います。
とりあえず今日は人生のクソゲー編を。
(どれだけ長編にする気だよ・・・)
■はじめに
自分の人生のことを書こうと書き始めたら、前後編で9000文字近くになってしましました。。。
暇のあるときに読んでいただけると嬉しいです。
1. 中学高校時代
1991年生まれのアラサー男子。
地元の私立中高一貫進学校に中学受験で入学するも、それで全てが終わったと言わんばかりに、燃え尽き症候群に(12歳ですが・・・)。
中学1年の時はなんとなく新しいことを学ぶ楽しさがあり、何事も頑張っていた。
しかし、事件は2月に起きた。
悪友に初めてアニメイトへ連れて行かれたことだ(今では感謝しているが笑)。
そこでアニメや漫画に触れ、そして堕落した。
とことんまで堕ちた。
中学受験時はあと一歩及ばず進学クラスで入学したが、中学1年のときの頑張りが認められたためか、中学2年になるときに旧帝大や早稲田慶応を目指す特進クラスに上がることができた。
なのに、卒業するときにはなぜか進学クラスに戻っていた。
クラスまで落ちていた。
中学高校と帰宅部で特にやることなし。
家に帰ればアニメ・漫画・ゲーム三昧。
学校の授業は寝るばかり。
どこのニートだよ。
将来どこの大学に行きたいとか将来の夢とか何もなかった。
ただ、そんな私にも一つだけ取り柄があった。
それはパソコンを触ることが好きだったということだ。
情報の授業時間は大好きで、誰よりも早く課題を終わらせていた。
当時は必要にかられ、アニメの動画変換にもハマっていたのだが、動画変換の自動化のためにバッチでスクリプトを書いていた。
とにかくパソコンを触る時間は楽しかった。
知らないことを何でも知れて、できないと思うようなこともできて、全知全能感に酔いしれた。
2. 大学時代
どこの大学に行きたいという希望もなく、勉強はサボりまくっていたが、それなりに頭が良かったのはありがたかった。
もちろん、模試における判定で旧帝大レベルはE判定だった。
だが、MARCHや関関同立レベルはB・C判定を出せる学部もあった。
高校3年の夏の話である(手遅れ感満載ではあるが・・・)。
そんな折、高校で防衛大学校の学校説明会(目的は勧誘ですね)が開催された。
自衛官になろうなどと微塵も思っていなかったが、なぜだか自分でもよくわからないままなんとなく参加してみることにした。
そこで説明を聞くと、防衛大学校に入校を決意させる事柄がただ1つだけあった。
学費が税金で賄われ、お給料がもらえる、と。
その言葉の意味するところは何も理解していなかったが、すぐさま次の模試で「防衛大学校」の判定を出してみた。
するとA判定だった。
これはもう受験するしかないと思い、受験し、合格した。
ただ、入校してからは当然のように地獄だった。
自衛隊員なのだから。
他国なら軍人(に準ずる)職に就いているという自覚もなく就いたのだから。
なんとなく生きてきたオタクがある日突然異世界転生してしまったらきっとこういう感じなのだろうと思えるほどに、日々防衛大学校の中で生きていくことに必死だった。
自分でもよくわからなかったのだが、不思議と辛くても辞めようとは思わなかった。
そんなこんなで2年の月日が流れた時、留年した。
理由は単純に中学高校時代と同じく、勉強をせずにいただけのことだ。
赤点を取りすぎて、留年した。
防衛大学校は4年制なのだが、留年は1度のみ許される(2度目はなく、2度目は放校処分となる)。
そこからは、急転直下に転落していった。
留年して、いろいろな人と喧嘩して、いがみ合って、居辛くなって、自主退校した。
留年が決まってからわずか1ヶ月の出来事だった。
3. ニート時代
退校してからは勝手に自分に絶望して、やることがなさすぎて、軽い鬱になった。
何もやる気がなく、一日中ベッドの上で過ごす日もあった。
大好きだったゲームもやらなくなり、アニメを見る気力も漫画も読む気力もない。
そんな日々を実家に帰ってから1ヶ月ほど過ごしていた。
もちろん、親と喧嘩する日もあった。
心神喪失していたところに追い打ちをかけられた気がして、暴れたり泣き叫んだりすることもあった。
そんなある日、母親が突然私に80万円ほどを差し出してきた(なんと現金で)。
何かと思って少し身構えた。
手切れ金を持って、出て行けと言われるのだろうか?と。
だが、違った。
母「バイクに乗りたいって言っていたでしょう?このお金を使ってバイクの免許取って、バイク買って、どこかに行ってきなさい。」
普通に泣いた。
親としてもなんとかしたいと思っていてくれたようで、ありがたかった。
それからバイクの免許を取得して、バイクを購入して日本各地に旅行に出た。
幸い、防衛大学校時代の貯金が50万円ほどあったので、それなりにいろいろな場所へ行くことはできた。
※購入したバイク(SUZUKI GSR250)と富士山(裾野市にて撮影)
いろいろな場所へ旅行することは知らないことを知ることができて、とても楽しかった。
それに体を動かすことは鬱々とした気分が晴れて、とても気持ちよかった。
ただ、半年ほどすると貯金もなくなってしまったので、とりあえずアルバイトを始めることにした。
4. フリーター時代
アルバイトをするとなったときに、どこで働くと良いかということで悩んでいた。
やはり働くということがまだ少し怖かったのだ。
自分が入ったことによって、嫌がらせをされないか、などなど。
いろいろな思考が頭をよぎった。
ならいっそ全く新しい環境で働けたらいいなと感じた。
例えば新しくオープンするレストランなどだ。
これなら全員が全員新規に集められた、顔なじみがいる環境ではないだろうと思ったからだ(経営者等を除き)。
そうそうあるわけ無いと思っていたのだが、なんと実家の近くに1ヶ月後に新しくマクドナルドがオープンするということで、ちょうどオープニングスタッフを募集していた。
迷わず応募した。
そして面接して、問題なく採用された。
フリーターとして働き始めるにあたり、辞めるまでに必ず身につけようと決めたことがあった。
アルバイトはあくまでも正社員になるまでのリハビリと考えていたからだ。
一度社会に(無自覚とはいえ)公務員として出てしまって、もう一度いきなり正社員として働くのは怖いと思ったがゆえの策だった。
(防衛大学校の学生は特別職国家公務員として自衛隊員の扱いになる。)
(1)コミュニケーション能力を身につける
(2)自分から率先して行動する
(3)素直になる
この3つだ。
この3つのことができていなかったがゆえに、留年してからの流れがおかしくなったとバイクで放浪しながらずっと考えていた。
働き始めてからはとにかくコミュ力を高めようと、とりあえずホウレンソウを頑張った。
私は平日の朝にシフトに入ることが多く、主婦の方とよく一緒になったので、とにかく主婦の方たちと話もした。
主婦の方たちはやはりコミュ力は高く、何かにつけて話し方で気遣われているということが感じられた。
主婦の方たちはなぜそんなに話題に尽きないのかといったことや、質問の仕方や聞く姿勢などを学ばせてもらった。
率先して行動をするにはどうしたらよいかということを考えていると、あることに気がついた。
コミュニケーションを取って、相手の欲しい物・事がわかると、すぐに行動できるということだ。
常に自分から情報収集を行い、何をしたら良いか情報を整理し、順番に行動をしていくと自ずと率先して何事にも対処できうようになっていった。
誰かとコミュニケーションを取っていくうちに、相手から自分の欠点やして欲しくないことを指摘される機会が増えていった。
そうなったときに喧嘩腰になってはダメだと自分に言い聞かせる事によって、受け入れるようにしていた。
結局、その延長線上にあるものが「素直になる」ということに気づいた。
受け入れて、わかったと言う(場合によっては謝ったり礼を言ったり)。
それは簡単なように思えて、とても難しいんだなって。
自分とは違う誰か・何かから発せられたものを受け入れることが即ち素直さなのだと知ることができた。
結局、3つの事柄ができるようになるまで2年ほど時間を費やした。
そして自信がついたからこそ就職活動を始める気になれた。
Re:社会人編へ続く