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胃袋(6月)



cover by 阿久津祐亮


最近、みた夢を忘れないようにメモってるんだけど、見返すと大体意味のわからんこと書いてておもろい。アメリカンな純喫茶で血を流して座っている、自分が本に変化してプールに飛び込む、岡村ちゃんのツアーに最近行ってないからか、ご本人直々「なんでライブ来ないの?僕と会うのが恥ずかしいの?」と言われる、など。全く意味をなさない景色の時もあれば、なんか頭に残っちゃうレベルの啓示を受けてることもある。ちなみに、僕の恋人は右目と左目で違う夢を見たと言っていた。なんかそっちの方がかっこいい。
メモをつけ始めたのもその子の影響で、「毎日みんな死ぬ練習してるんだよっ」と僕にそっと教えてくれた。眠ることは臨死体験をすること。毎日意識を飛ばして、僕らは無意識からやってくる想像力と向き合っている。

眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。

芥川龍之介「或夜の感想」

そんな貴重なニアリー・デスな想像力を鍛えたいと思って、メモをし始めたが、いささか夢が平凡すぎる。さびしい。
もうちょっと面白い夢はみてないのか俺とつぶやきながらメモアプリを見返していると、「オープンカーで嵐のマイガール」というメモがあった。一瞬、夢のメモかと思ったけど、よくよく思い返すと現実の話だった。梅雨が始まりそうなちょっと不安定な天気の日に、めちゃめちゃイカついオープンカーが通って、爆音で「ありがとうの想いを伝えたいよそっと君の元へ〜」と流してた。しかも信号待ちの瞬間に、ジャスト、サビ。あのキラキラしたサビが、曇りの東京の交差点の空気を少しだけ変えてた、気がした。オーナーもサングラスしててクールな感じだったのに、意外とこんな日にマイガールなんだな。と思ったのを覚えてる。そんなちょっとした日々の裏切りに目を凝らしながら、今日も夢か夢じゃないかわからない現実の出来事を探してる。

作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢を見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。

村上春樹

すべての空白に君がいるのはずるいよ
全てがevergreen! 眩しい光の中で目覚めるよ
夢の劇場であなたをみつめてる

明晰夢


砂漠の動物園

アングラ演劇入門。メモには劇団員たちが声高々に叫んでいた言葉たち。「私は記憶の継続の死体/もう1人は他人もう1人は不在/汗びっしょり。」意味がわからん。というか意味なんて理解できなくていいのかもしれない。というかないのかもしれない。後半はそんな個人の虚無の地獄の旅を存分にフィールしました。途中、劇団員にインタビューされるパートがあって、前の人が今私とあなたの心の距離は?と聞かれていた。通常の演劇にはない関係性を持ち込むことによって亀裂が生まれる。そんな中でも僕はなぜかその人との距離は2億光年ですと答えたいぐらい別の惑星にいる接点のない人のように思えた。物語に感情移入してる時の方が心の距離は近いのにふと物語から飛び出して現実世界の距離感になるといっきにその距離の虚構が剥がされる。今まで感じてた心の距離は間違いだったのか?演劇を通じて物語の虚構と人間的パワーの間の関係性を探っているようで見応えがあった。音楽をライブで表現するとき、心の距離はどうか。演者と聴き手というセーフゾーンは超えて音楽に作用しあえるか。虚構の世界をぶち壊した時そこにちゃんと本物があるか。

翻訳できない私の言葉展

展示の最後に、「わたしの言葉」のガーランドという、「わたしの言葉」のエピソードをガーランドにして広げるというものがあった。その時自分なりに考えたわたしの言葉のエピソードはこちら。

自分の心が歌詞となり、音楽という形で備忘録的に感情を残してきた自分にとって、わたしの言葉が標本化される時がある。ずいぶん前の自分の曲を聴いて中途半端な表現をしている自分が言葉から見えてきてしまって残酷だなと思うこともある。そしてそれが本当になってしまう瞬間もあって尚更こわい。だからこそ今書く歌詞が本当のものか、自分のものなのか、どうかは常に悩む。自分が発話してる言葉の延長線上にあるものとして素直でいたい。
うちなるカメラが拾ってきたその言葉に含められる要素がノスタルジーでたまに自分の言葉なんてないんじゃないかと思う時がある。
でも書き上げた時独り占めしたい!そういう気持ちになれる言葉たちは大抵は自分の言葉になっている。そして言語が思考の全てではないというテーゼもあるから面白い。ライブで自分の記憶や言語表現以外の感情が乗っかった瞬間にわたしの言葉になる感じとか。
自分の母国語だけが思考を規定するものではないからその標本から飛び出して連れ出してあげないといけないとも思う。


内藤礼 生まれておいで 生きておいで

空洞のコップと水がたっぷり入ってるコップ。二人つの関係が繊細なバランスで存在していることだけはわかる。水がいまにも溢れ出しそう。カラのコップの上にのってる水はなぜか生命力をありあると感じさせる。
「内藤礼:すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
ふたつの生命がただゆらゆらとある瞬間、何かが生まれる瞬間、何かが死んでいく瞬間、その場の粒子がスルスルと作品と関係性を持って導かれる不思議な感じ。マイクロアンビエントミュージック。空白の中に実態を見出す作業。一緒に展示を見たこの胃袋の表紙をやってくれてるお友達は、生きている瞬間にも見えるし、死んでいる瞬間にも見える。と言っていた。一回だけ船の上でアンビエント挑戦してみたけど、永遠を作ろうと思う作業はこれから生まれる何かに対する祈りでもあるし、生きてきたものたちへの鎮魂歌のようにも思える。それと少し似ているかもしれない。

散歩

ユリイカの散歩特集を読んだ。その特集では散歩をするときには情熱的な観察者でなければいけないし、孤独な遊歩者は計画されない景色の連続の中に新しい意味を見出すと書いてあった。そんな散歩の基本的な姿勢に自分自身を重ねてみると、散歩的バイブスが全然出てねえなと感じる時がある。今月は特に足りなかったように思う。いい曲は作れてるとは思うんだけど、仕上げていくフェーズなので、いささかおうちに篭ったりしがち。内向きのカメラが起動しすぎて、情熱的な散歩バイブスがなかなかない。
映画「燃ゆる女の肖像」の主人公が肖像画を描こうと必死に相手を観察し心の奥の部分まで触れようとした愛を思い出す。愛は観察、観察は愛。日々変わってしまう物事に少しでも未来忘れないでいようと思いを先に飛ばしながら心にスケッチをしていく。毎日愛を書いている書道家がこれはルーティンではない明日へのラブレターだと言っていた。
退屈な日々から抜け出すには、散歩で地形や高低差に目を向けてみて世界がこんな形してたんだと再認識してみるように、日常を形作るサークルを打破する裂け目に出会わなくてはいけない。その日常キャズムは、君が書道なら僕は音楽。君が散歩に連れ出してくれるのならそれもそれでよろこんで。

マクドナルドのポテトを持っていったカラス



今月の映画

CURE キュア(1997年製作の映画)
ピアニストを撃て(1960年製作の映画)
枯れ葉(2023年製作の映画)
フォロウィング(1998年製作の映画)

今月のプレイリスト


みんなの胃袋

「(灰色の)青春」、口ずさんじゃう率が高いです。こだわりポイントや制作秘話あったら教えてください!

ありがとうございます!そういえばお友達から音がいいって言われて嬉しかったな。今回のミックスは聞かせたい音や場所を意識してそこだけ意識的に音を抜いています。特に後半パート。いつかブンブン低音が鳴らせる時が来るといいね。

千種創一さんの「千夜曳獏」がよかったです。生活の一瞬に、記憶の中の一瞬が立ち上がる感じ。


(めっちゃ気になるな...いいぞいいぞみんば胃袋を自分の好きなものを紹介し合う掲示板的な存在だと思っていろいろ投稿してください)


みんな今月もありがとう。




他愛もない独白を読んでくれてありがとうございます。個人的な発信ではありますが、サポートしてくださる皆様に感謝しています。本当にありがとうございます。