チルアウトからノスタルジアという回路へ| Mura Masa「R.Y.C」
Mura Masaの新作「R.Y.C」。やはりこの世界のフィーリングはこうなのだとぼくは再確認する。この世界のフィーリングは” チルアウト” から新たなものへ転向しているのかもしれないと。今作では以前のMura Masaの” チルアウト” という回路を全面的に用いていないことは明らかだ。だから僕はモヤモヤしながらこのアルバムを聞いていた。なぜMuraMasaが”チルアウト”から転向したのか?いや、違う。転向などしていない。諦めてもいない。これは間違いなく彼なりの"チルアウト"なのだ。この時代にそくした新たなチルアウトの姿勢なのだ。今僕が必要としている”チルアウト”は明らかに変化している。Mura Masaが提示する"チルアウト"とは何か?僕が今必要としている"チルアウト"とは何か?今回はチルの技法の見地からではなくそのスタイルや自分の中での立ち位置そのものに注目して考えてみようと思う。まずは、今作の内容について話していくところからはじめよう。
「ドープな地鳴り」が”ノスタルジア”をえぐりだす
今作は、前作「Mura Masa」のインディーテイスト溢れるローファイなビートではなく、パンクロック、ポストパンクといった音像へ転向している。アルバムに先立ってシングルリリースされた「Deal Wiv It」を聴いた時は、このアルバムどうなっちゃうのと若干の不安を引き立てた。友人との”Mura Masa”はどこへ行ったの!?と騒ぎ立てたのも僕の中では記憶に新しい。
ジャンルの議論はさて置き、こういうサウンドに転向してより際立ったのは、Billie EIlishが音楽の世界に提示した「ドープな地鳴り」のようなアプローチだった。その音像は世界を熱狂させていたし、インディーポップの時代性を汲み取る意識を反映させている。
冒頭にある「僕らは希望のない世代をやっている」という一節からも読み取れるように、20年代の失われた世代の焦燥や不安を「ドープな地鳴り」、「ざらついた音像」に組み入れ、2020年の想像力としてこの作品は上手く結実している。
この「ドープな地鳴り」は「youth」な感覚をえぐり出し、本物の光を映し出す。細かい記憶の切片のようなものが、やるせない、走り出したくなる青春を暗示する。それも”ノスタルジックに”だ。
『「R.Y.C」は「Raw Youth Collage」の略で、子どもの頃の記憶や体験、ストーリーなどがコラージュされたノスタルジアを感じられるアルバムにしたくて、歌詞もアルバムを通してそうした内容が中心になっているからさ。「R.Y.C」にしたのは、単純に言いやすくしたくて(笑)。』
["WWDJAPAN", "鋭才プロデューサー、ムラ・マサ 2ndアルバム「R.Y.C」に込めた想いとゲストに迎えたい日本人とは?", https://www.wwdjapan.com/articles/994021]
「No Hope Generation」は恐れと、哀しみと、怒りと、それを誤魔化すために導入された高揚とが複雑に混ざり合うトレインスポッティングのレントンのようだし、「Teenage Headache Dreams」は長い1日の末に訪れた、心優しく懐かしい薄暮だ。
そしてこれは単に過去を振り返るための懐古的なアルバムではないと僕は思ってる。ではなぜ”ノスタルジア”が必要だったのか?この”ノスタルジア”には時代性を汲み取る大きな回路があるはずだ。僕はこのノスタルジア的な記述法の中に「新しいもの」の転向をみることになる。なぜMura Masaがこの手法を用いのか、そして僕にとっての”チルアウト”とは?
僕にとってのチルアウトは「消費する」時代から自立するための回路だった
では僕にとっての”チルアウト”は何か?本編では当時の僕を取り巻く時代性を読み解きながら語ることで手がかりを探っていく。
結論から言ってしまえば、「”消費する”時代から自立するための回路」これが僕にとっての"チルアウト"だった。戦後民主主義象であった"大衆の原像"(=近代天皇制という制度に共同幻想を求めていた時代)から自立するために吉本隆明は”共同幻想論”で消費という自己幻想の回路を用いた。(宇野常寛「遅いインターネット」参考) 消費による自己表現を用い高度経済成長のもたらした消費社会の個人の力をエンパワーメントする形で試みられたプロジェクトだった。これが近代において個人化、都市化と深く関わり合っていたのだ。
この速度の早い”消費する”社会は当時、新しいものの到来を歓迎していた。まだ見たことのない音に心を弾ませた。10年代前半のEDMのムーブメントが象徴していたと僕は感じる。
そしてその時代感から距離を置くために、よりシンプルで洗練され、落ち着きのある”チルアウト”があった。あくまでもこれは僕の中での話だが。
チルアウトはこの長く続く大量消費の構造に流されないように程よい距離感をつかんでいた。僕は速度の早い消費社会に留まることで思考が止まることを恐れ、よりスローな空間に身をおいた。薄利多売の衣服を毎年買い換えるのではなく、長年着まわせるモノへ。ストリーミングで聞き流すのではなく、LPを購入し、いつまでも聞いていたいと思う音楽に出会う姿勢へ。メインのカルチャーから一歩距離を置いて腰を据える”チルアウト”が僕の自立への道だった。
「ここ」を多重化させる拡張の時代へ
そしてこの回路に大きな軸が追加された。それが、拡張現実の時代によって開かれた現在をアーカイブによって多重化させる動きである。現在のインターネットは「ここではないどこか」を作るのではなく「ここ」を多重化させるために機能している。「ポケモンGO」が代表するように、生活そのものを娯楽化させる。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく、「ここ」に、内部に深く潜るための回路を今必要としている。
そして「ここ」をより多重化するためにチルアウトの回路はノスタルジアに傾倒していくことになる。チルアウトの腰を据えるスローなスタイルは踏襲しながらも、今を多層化するために内部に深く潜っていく。そこでは新しいものは拒絶される。僕らがクールだと思うのは、過去のアーカイブによって開かれるエモなのだ。ではなぜ未来への傾倒ではないのか。これはこの時代のインターネット空間が大きく影響している。この構造は宇野常寛が示唆する”母性のディストピア”という構造を参考にしたい。
新たに到来するものを拒絶する”母性のディストピア”
今日まで「新たに到来するもの」を受け入れその技術を享受し、現実を拡張してきた。その受け皿としてインターネット空間があった。新たなものを享受し蓄え続けている。しかしそのインタネット空間の成熟は為されないまま今日に続く。終わらない拡張に僕らは直面している。結果、このデジタルダイバーシティー以降の世界空間は外部にアクセスできる姿勢を保っていながらも実際は自身の過去のアーカイブに接続可能な"ゆりかご"として進化してきたのだ。
この空間を覆っている情報環境は巨大な、目に見えない、母胎のようなものだ。そこで人は目にしたいものだけを目にし、信じたいものだけを信じる。
(宇野常寛「母性のディストピア」)
その母胎(=インターネット空間)は新たに到来するものを拒絶し過去のアーカイブによって認識できる未来を構築しているのだ。
多層化する「ここ」による未来のゆるやかな無効化、ノスタルジアへの傾倒
そしてこの戦後インターネット空間からの未来の拒絶は音楽評論家の故マークフィッシャーの言葉「ゆるやかな未来の消去」(Slow Canncellayion of the Future)からも、いくばくかの手がかりがあるように思う。フィッシャーは2000年代を境にひとつの断絶をこの言葉を使って形容しており、「新しいもの」をめぐるひとつの転向を示唆している。
「新しいもの」に対する期待の収縮(デフレーション)にともなわれてきた。(略)形式的なノスタルジーに支配されているということである。(マークフィッシャー「わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来」)
未来の音楽に対する”衝撃”は失われたとマークフィッシャーは語る。僕らが新しいというとき、アーカイブの中で考古学的に再発見される過去のリアルに対する“希少性”やその編集の“技巧性”をみるからだ。
拡張現実の時代を自立するための”ノスタルジア”という回路
直近一ヶ月のリリースをみてもこの転向は顕著だ。EDENの「no future」、DuaLipa「Future Nostalgia」も示唆するよう、2020は「新たに到来するもの」を拒絶し、「失われた世代」として新たな想像力の記憶を求めている。
そしてMura Masaは以上のインタビューにあるように、過去のアーカイブに未来の想像力を求めたのだ。
現代社会というか政治的にも社会的にもつまらない今の時代を表していて、スマイルマークはその陰から覗いている幸せだった頃の記憶やノスタルジアを表現しているんだ。 "WWDJAPAN", "鋭才プロデューサー、ムラ・マサ 2ndアルバム「R.Y.C」に込めた想いとゲストに迎えたい日本人とは?", [https://www.wwdjapan.com/articles/994021])
Mura Masaは”ノスタルジア”という回路を使用しこの時代に流されないように程よい距離感をつかんでいるように思える。
"エモ"は「未来のアーカイブ」に織り込まれた
僕らが新しいと思うものは、未だかつて見たことのない音という構造から、アクセス可能な過去のアーカイブから導き出す新しさへと変わりつつある。ぼくらの”エモ”は未来のアーカイブ性によって再発見されているのだ。僕らがクールだと思うのは、過去のアーカイブによって開かれるエモなのだ。(大前提として、新しいものを受け入れる姿勢がベースであるということは誤解のないように追記しておく。)そして同世代がこのノスタルジックに傾倒するのは「新しいものの到来」による疲労感によるものが大きい。僕らは新たな固有名詞をもう必要としていない。ぼくは「新しいもの」の転向の季節にいるのだ。今、チルアウトというエモの進入角度がノスタルジーに向かってる時、僕は作り手として、聞き手としてどういう姿勢を保てばいいのか目を閉じて考える。今僕らは「ここ」を多重化させてくれる「未来のアーカイブ」を必要としてる。でも、未来には期待したい。僕らが今未来に期待できる走り方はどんなものか。こればかりは走りながら考えるしかない。次回作の準備に7割の脳味噌を使いながら。