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これは読書か?


                 次男が中学生だった頃、今から二十年ほど前のことである。
元気よく登校したと思ったら、すぐさま戻ってきた。
「朝の十分間読書」の時に読む本を忘れたのだという。分厚い本を無造作に鞄に突っ込み、慌てて玄関を出て行った。
当時、市内の小中学校では「朝の十分間読書」を励行していた。子供たちが本好きになるのは親としても喜ばしいことだ。
階段を下りる足音が小さくなるのを聞きながら、わが子が小さかった頃、おやすみ前に絵本の読み聞かせをしていた頃を思い出した。
読み聞かせの本は、幼稚園で定期購読していた「こどものとも」が多かった。
本を選ぶとき、ややもすると自分の好みのものを選びがちになる。その点「こどものとも」は毎月、様々なジャンルの本が届くのがいい。私も読み聞かせるのが楽しみであった。
読み聞かせる時のスタイルは、大体決まっていた。
まず長男次男が私の両脇に寄り添うように寝転ぶ。そして末っ子三男はうつぶせになった私の背中によじ登って来るのだった。正に親亀の背中に乗った子亀状態である。
時には子供たちの向こう側に、主人の大きな顔が並ぶこともあった。
そして、子供たちの寝息より先に主人のイビキが轟く事も一度や二度では無かった。今となっては懐かしい。

次男は「朝の十分間読書」で、いったいどんな本を読んでいるのだろうか?
彼が読書している姿を私はほとんど見たことが無いのだが・・。
推理小説?ハードボイルド?はたまた歴史物だろうか。まさかロマンス系?
いや、それはどう考えてもあり得ないだろう。帰宅したら聞いてみよう。
今出て行ったばかりの次男の帰りが待ち遠しくてたまらなかった。
夕方、部活でヘロヘロになった彼は、玄関で崩れるように倒れこむ。そして「ただいま」より先に「腹減った~」と叫ぶ。いつもの光景である。
晩ご飯には、彼の好きな鶏の唐揚げを皿にてんこ盛りにして、テーブルへ置いた。そして朝から楽しみにしていた質問を投げかける。
「ねえねえ、朝の十分間読書で何の本を読んでるの?」
しかし彼は今、長男、三男と繰り広げられている唐揚げ争奪バトルに全神経を集中している。私の質問など全く耳に入っていないらしい。食欲旺盛な男子3人を前に鶏唐は気持ちよい勢いで減っていく。
やがて嵐は去り、息子たちは満足気に満たされたお腹をさすっている。
そのタイミングで同じ質問をする。
「ところでさぁ、朝の十分間読書で何の本を読んでいるの?」
彼はサラリと応えた。
「時刻表だよ」
「えっ⁉」
私はその場で固まる。
「時刻表・・・」
もしかして聞き違いかな?きっと聞き違いだ。私はそう思いたかった。
しかし長男の
「お前らしいじゃん(笑) でもさ、よく先生が許したなあ」の言葉に聞き違いでないと思った。
確かに次男は、大の電車好きである。いわゆる「鉄っちゃん」というやつだ。
されど、されどである。いくら電車好きとはいえ、朝の十分間読書で「時刻表」はないだろう。あれは「時刻表」って言うくらいだから「表」なのだ。そして時間を表す数字の羅列なのだ。数字は文字ではない。
ともあれ、あんなにかさ張るものを毎日持って登校していたとは恐れ入った。折り畳み式のコンパクトの時刻表があるではないか。いやいや違う、そういう問題ではない。
そして長男の言うように担任の先生がよく許したものだ。もしかしたら次男が時刻表を読んでいる事を知らないのであろうか。若い担任の男性教師の顔がチラついた。
数日後、所用で学校へ出向いた際、担任の先生に時刻表読書について聞いてみた。野球部の顧問をしている担任の先生は、日焼けした顔から白い歯を覗かせながら爽やかに笑った。そして逆に
「お母さんはどう思いますか?」と私に聞いた。
それが疑問だから聞いているのだ。

その夜、ソファーで新聞を読んでいた主人にも聞いてみた。
「ねえ、時刻表って読書になると思う?」
「俺がこうして新聞を読んでいるのを、誰も読書とは言わないだろ」
と主人は笑った。確かにそうである。
そもそも、読書する意味とは何ぞや。朝の十分間読書の目的とは何ぞや?
文科省の文言には読書することは、「考える力」、「感じる力」、「表す力」等を育てるとともに、豊かな情操をはぐくみ、すべての活動の基盤となる「価値・教養・感性等」を生涯を通じて涵養していく上でも、極めて重要であると記されていた。
・語彙力を増やし文章力を向上させるもの
・想像力が豊かになり、新しい価値観に出会えるもの
・思考の幅を広げるもの
 と言ったところであろうか。

私はわざとらしくコーヒーなど持って次男の部屋をノックする。
年に数回あるかどうかの母の行動に、明らかに鬱陶しいオーラ全開の声で
「どうぞ」と返事がした。
彼は一応、机に向かっている。その机の上には、参考書ではなく付箋の貼られた時刻表がうず高く積まれていた。
お盆の上のコーヒーカップにちらっと目をやると
「どっかそこらへんに置いといて」とぶっきらぼうに言う。
物が散乱していて置く場所なんかありゃしない。
カラーボックスの棚にわずかなスペースを見つけ、そこへ押し込むように置いて「じゃあね~」と回れ右をした。
滞在時間三〇秒である。部屋を出ようとドアに向かった私は足の小指を何かにぶつけた。「痛っ」片足を上げた。こういう時、反射的にアゴが突き出るのは何故だろう?とにかくバランスを崩した。そして万歳の格好からひれ伏すように前方につんのめった。宙を舞ったお盆が何かにぶつかり、倒れかけの独楽のように回っている。
私は、散乱している「時刻表」につまずいたらしい。
「大丈夫?」
次男が笑いをこらえながら、一応心配そうに言う。
「・・・それ、私に言ってるの? それとも時刻表に?」
私は足の小指をさすりながら問う。
「・・・どっちにも・・・」
数秒の沈黙の後、二人して顔を見合わせケタケタと笑ってしまった。
次男は、床に置かれていた時刻表を拾いながら、ポツポツと話し始めた。
「だってさ、時刻表を眺めていると、いろいろなストーリーが浮かんでくるんだよ」と。
「この駅で降りた人はどんな人たちでどんな生活を送っているのだろう?とか、どんな産業がこの街を支えているんだろう?とか知りたくならない?初めてあの駅で乗った電車は特急だったのだろうか、それとも各駅か?何の目的があってこの駅で下車したのだろうとか、そんなこと考えるとワクワクしない?」
「駅のホームではどんな会話が交わされたのだろう?あそこの駅弁はどんな味だろう?海が近いから海産物はきっと旨いだろうなぁとか最高じゃん」
彼は心から嬉しそうに、言葉がこぼれるように話した。そんなこと言われると私も否定はできない。
想像の翼を広げる時刻表はやっぱり読書だよね!とおもわず言ってしまいそうになる。
私から見たらただの数字の羅列は、彼にしてみれば文字として変換されるのかもしれない。きっと、私には読めない文字が散りばめられているのだろう。
巷でよく言われる「多様性」ってこういうことなのだろうか。
私にはよく分からない。
何はともあれ、これを「読書」と思った(思えた)彼の発想は自由で柔軟性に富んでいたということにしておこう。

後に朝の十分間読書は、全て時刻表だったと担任の先生が教えてくれた。

現在、三十歳を過ぎた彼は、相変わらず電車が好きで、今では休日を利用しジオラマづくりに励み、自由人を楽しんでいる。
そんな彼にも、時折「お見合い話」を頂くことがある。
当の本人にはその気は微塵もないらしいが。
私はふと考える。
仮に彼がお見合いをしたとしよう。あくまでも仮に・・・
お相手の方から
「どのようなご本を読まれるのですか?」
等と尋ねられたら彼は何と答えるのだろう。
きっと臆することなく
「ハイ、『時刻表』です」と満面の笑みで言うに違いない。
やれやれである。
そして思う。
人生にも線路にも幾多の「ポイント」や「踏切」がある。
北へ行くか、南へ行くか?山間か、海辺か、大都会か?
停車時間は?乗り継ぎは?
各駅?特急?はたまた新幹線?
何れにせよ、線路は続くよ、どこまでも・・・だ。
彼の人生に幸多かれと願わずにはいられない母である。

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