沖縄戦が悲惨になった5つの理由
今年も慰霊の日がやってきます。
毎年、この時期になると慰霊の日特集が沖縄では放送されますが、
どれも「悲惨だった」「残酷だった」「二度とすべきではない」と
オウムのように繰り返す感情的な番組に終始します。
二度と起こしたくないなら、まず、どうして沖縄戦が悲惨になったか?
それを検証しないといけないでしょう。
詐欺に二度と遭いたくないなら、詐欺の手口を知る事であって、
酷い目にあった人の体験を延々聞いても解決にはなりません。
理由1 最初から時間稼ぎの捨て石
大本営は、沖縄を時間稼ぎの場と考えていて、
沖縄守備軍に持久戦を示唆していました。
事実として、政府が和平を模索し出すのは沖縄が陥落した後で
事実上、沖縄は捨て石だったのです。
大和が特攻してこようと、沢山の特攻機が応援に来ようと
制海権も制空権もない中では、ひたすら戦争を引き延ばす
その目的しかあり得ないでしょう。
住民を救うというのは、それが本心であれ二次的なものです。
理由2 住民保護の視点が欠けていた
沖縄戦を前に、疎開計画があり、結果として8万人が九州や
台湾に疎開させられました。
しかし、これは、県に29万人いた60歳以上と15歳未満の者
及びその看護をする女子という縛りがあり、規模も10万人でした。
それ以外は、鉄血勤皇隊や食糧増産、弾薬運びなど
日本軍に協力する為に、疎開は許されませんでした。
北部疎開計画もありましたが、住民を運ぶ車もなく、
食糧もなく、移動も食糧も自分で用意しないといけなくなり
8万人の北部疎開者は栄養失調に苦しみます。
日本軍の住民対策は皆無か、あったとしても
実現不可能な机上の空論でした。
理由3 アメリカ軍の無差別砲爆撃
日本軍ばかりでなく、アメリカ軍も酷いものでした。
上陸前に、大量の艦砲射撃と絨毯爆撃を行い、
地上から民間人の住居を焼き払ったのです。
こうして、住居を奪われた住民は必然的にガマ(自然壕)に
籠る事になり、多くが日本軍がいる場所は安全と考え
南へ南へと死の行進を開始したのです。
ところが、このような米軍に今でも感謝して
「アメリカーは親切だった」と真顔で語る沖縄戦体験者がいますから、
一個人の体験とは当てにならないものです。
理由4 突然の32軍の南部転進
当初、沖縄守備軍である32軍は首里で最期の一戦を行い
潔く玉砕するという作戦プランを立てていました。
そこから、4月29日、住民を南部へ避難させるように
島田叡知事に命令が下ったのです。
知事はその通りにしましたが、その後32軍は、
持久戦法がアメリカ軍に思いのほか消耗を与えている事に
気を良くし、知事には何の相談もなく、南部転進を決定します。
5月22日、それを聞かされた知事は猛抗議しますが
決定は覆らず、ここで軍と住民は混ざる事になります。
沖縄戦における住民の戦死者の6割が、
この時の牛島司令官の南部転進によるものでした。
首里で32軍が全員玉砕してくれていれば、
6割の住民の命は助かったのです。
理由5 降伏命令を出さなかった司令部の不手際
6月23日、摩文仁に移転した32軍司令部は、
軍旗を燃やして、司令官牛島満、参謀、長勇が自決します。
これで日本軍の組織は壊滅するのですが、
軍司令部は、兵士や下士官に戦闘行為の終結を
伝達しませんでした。
多くの兵士は司令部が消滅した事も知らず、
牛島司令官の「悠久の大義に生きよ」という
精神論のコメントだけで
死ななくてもいい命を散らしたのです。
まとめ
沖縄戦は、近代以前の戦争に逆戻りしたと言わざるを得ません。
非戦闘員を従軍させ、非武装中立地域を造らず
行政と軍は連携を取れずに満足に力を発揮できず、
司令部だけが自己満足で玉砕して一般兵士は、
地獄の戦場で生き残る事だけを考えてさまよい、
守るべき非戦闘員を殺し、食糧を奪うような所業をする。
まるで東北で行われた戊辰戦争が甦ったかのように見えます。
このような部分は日本人の典型的な欠陥が全て現われた
ダメの見本であり、ただ、可哀想、悲惨、悲しいだけで
終わらせてはいけない事でしょう。
琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
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