「後乗り前降り」時代があった那覇市内線
那覇市内のみを走る那覇市内線は、前の扉から乗って、先に運賃を支払い、後ろまたは中央の扉から降りる方式である。いわゆる「前乗り後降り」と呼ばれる方式であり、どこで乗ってどこで降りても運賃が同額である那覇市内線だからこそ成り立つ方式である。
長らく那覇市内線はこの「前乗り後降り」方式であるが、かつて出入口が逆となる「後乗り前降り」方式だった期間が約5年ほど存在した。
730を期に後乗り前降りに変更
那覇市内線の乗降方式が、これまでの「前乗り後降り」から「後乗り前降り」に変更されたのは1978年7月30日のことである。この日は、交通方法が右側通行から左側通行へと変更された日、いわゆる730(ナナサンマル)である。
730以前の那覇市内線は、現在と同じく「前乗り後降り」方式であったが、730以後は、乗降時間が短くなるとして「後乗り前降り」へと変更された。当時の新聞記事によると、大阪市営バスを参考としたようである。
別の資料でも、上記の新聞記事と同様に、事故防止、人のさばきがスムーズになるという理由が挙げられており、さらに加えて、本土に合わせる形に変更したとの記述がある。「本土は全部、後乗り、前降りである」というのは、誤認識だと思われるが。
那覇交通としては以前から、「前乗り後降り」から「後乗り前降り」に変更したい意思があったようだが、730でほぼすべての車両を新車に入れ替えることとなったため、それを機会として変更したのであろう。また、この際に運賃箱も「釣銭式」から「両替式」に変更されており、市外線と共通の運賃箱にすることで、コスト縮減を狙ったものもあったかもしれない。
「後乗り前降り」は利用者にとっては不便だった
那覇交通としては、この後乗り前降りへの変更にメリットを感じていたようだが、利用者からは不満の声が多々あったようである。当時の新聞記事から、不満の声を抜粋した。
不満の要因としては、行き先を運転手に聞く習慣が強すぎたということであろうか。確かに、この当時の那覇市内線の行き先方向幕は、途中の経由地が1つ程度大きく書かれているかなりシンプルなもので、見ただけではどういうルートを通るのかがよく分からない。
例えば、下記の写真に記載されている「工高」とは「工業高校」の略であり、途中の経由地である「沖縄工業高校」を示している。かなり難易度が高い・・・。
一応フォローしておくと、那覇交通も少しでも利用者の不満を減らそうとはしていたようである。当時の本気度は不明であるが・・・。
約5年で「前乗り後降り」に戻る
当初の那覇交通は、利用者の不満を受けても「変更は全く考えていない$${^1}$$」ということであったが、結局のところ、変更から5年が経過した1984年3月15日より従来の「前乗り後降り」方式に戻されることとなった。
那覇交通が変更する気に至った理由としては、利用者の不満の声以外にも、無賃乗車という問題もあったようである。
車両の改造は無し
730時に購入した新車は、側面の行き先表示器を後ろドア付近に設置していたが、これは「後乗り前降り」の名残であろう。
これが「前乗り後降り」になるとなれば、行き先表示器は前ドア付近に設置する必要が発生しそうだが、「入口」「出口」のステッカーの貼り換え程度で済ませて、行き先表示器の移設といった改造をするつもりは無かったようである。
なお一部の730車は、前ドア付近にも行き先表示器を設置していたが、これは1984年以降に「前乗り後降り」に対応するため改造・・・ではなく、製造当初からこのようになっていたようである。
下記の動画は730直前の動画であるが、この動画の19分21秒あたりから、左側通行になった際にカーブを曲がり切れるかの試験運行を実施しているバスが映っている。写ってるバスは、730に向けて製造された新車であるが、この当時すでに前ドア付近と後ドア付近の両方に行き先表示器が設置されている。
なぜ、このような二重投資的なタイプが存在するのかは不明であるが「前乗り後降り」に変更後も前ドア付近の行き先表示器は「白い方向幕のまま」か「広告スペースとして活用」のどちらかでの運用となっており、なぜか前ドア付近の行き先表示器が活用されることは無かった。
両者の車両を以下に載せておく。
脚注
不評買う後乗り、前降り形式/市内線バス(1979年5月24日 沖縄タイムス)