かつては広大な敷地を有していた那覇交通の三重城営業所
那覇バスと、その前身である那覇交通は、かつて沖縄県那覇市西に三重城営業所を設置していた。住所でいうと「那覇市西三丁目8番1号」であり、現在は琉球物流の西町7号倉庫とタイムズ沖縄西町の立体駐車場が立地しているところである。
営業所が現役だった1993年当時の航空写真を以下に示す。
赤枠で囲ったところが三重城営業所であるが、本社も併設された那覇交通の中心拠点となる営業所であった。この当時でも、バス営業所としてはそれなりの広い敷地を有していたが、1976年に新設された当初は、ピンク枠で囲った県営三重城市街地住宅がある敷地も三重城営業所の用地であった。
かなり広かった三重城営業所
三重城営業所は、那覇バスの前身である那覇交通が1976年5月1日に新設したバス営業所である。同日より、那覇市内に4か所あった営業所(西本町営業所、小禄営業所、当蔵営業所、壺川営業所)を集約し、かつ全ての那覇市内線が三重城営業所を発着する路線網に再編された。
この当時の那覇市内の路線バス営業所は、三重城営業所1箇所のみとなり、市内線の全車両を管轄することになったことから、かなり広大な面積を有していた。那覇交通創立30周年記念誌によると、敷地面積は6,053.27坪とあり$${^1}$$、平方メートルに換算すると約20,000m2である。数値だけだとよくわからないと思うが、現在の那覇バスターミナルの敷地面積は約13,000m2である$${^2}$$ことから、那覇バスターミナルの1.5倍以上の敷地面積を有していたことになる。
新設直後の1977年当時の航空写真を以下に示す。この当時は、1993年当時の倍以上の敷地面積を有していた。
土地の約7割は貯油施設として使われていた国有地
新設当初の三重城営業所の敷地面積は、約20,000m2であったことは前述の通りであるが、このうちの約7割である14,138.49m2は、1977年(昭和52年)に国有地を購入したものであった。
この国有地は、アメリカ占領時代に米軍により埋め立てられた土地であり$${^3}$$、ブラックオイルターミナルと呼ばれる油の貯蔵施設が立地していた$${^4}$$。
本土復帰に伴い、米軍による埋立地の所有者は日本国となったが、この約14,000m2の国有地と、同じくブラックオイルターミナルとして使用されていた隣接する約6,000m2の私有地$${^5}$$を借用し、1976年に建設されたのが、約20,000m2という広大な敷地面積を有する三重城営業所であった。なお、この約20,000m2の借地のうち、国有地部分は前述のように1977年に購入して、自社の土地としていた。
三重城営業所が設置される前の1970年当時の航空写真を以下に示す。巨大なオイルタンクが立地する土地が確認できるが、これがブラックオイルターミナルである。
なお、別の航空写真では、オイルタンクが黒塗りになっているが、これは撮影が1972年の本土復帰前だったため、米軍関連施設として黒塗りされたものだろうか。
ちなみに、那覇交通創立30周年記念誌$${^1}$$には、1975年頃の建設中の三重城営業所の写真が掲載されているが、「タンク撤去作業中のクレーン車」というタイトルがついており、この時に撤去しているのが、ブラックオイルターミナルの土地に埋められていたオイルタンクの一部であろう。
1982年に県営団地用地として県に売却
1976年の市内線集約と同時に設置された三重城営業所であるが、集約に伴い誕生した長大路線は定時性に難があり、かつ無駄な回送が多く発生するという問題が発生したため、1983年1月6日に石嶺営業所と小禄営業所を新設$${^6}$$、1983年7月10日には新川営業所を新設$${^7}$$し、市内の営業所は4カ所へ分散されることとなった。
この営業所を分散する方針への変更に先立ち、広大な三重城営業所の土地は不要になったようで、ちょうど県営住宅用地を求めていた沖縄県に、1982年度(昭和57年度)をもって売却されたようである。当たり前ではあるが、借地は売れないので、自社で保有していた元・国有地が売却された。この時に売却された土地に、県営三重城市街地住宅が建設されている。
土地売却後の1984年当時の航空写真を以下に示す。県営三重城市街地住宅が建設中であるが、このために県に売却された敷地面積は13,630.83m2で、購入した国有地のほぼすべてを手放したことになり、三重城営業所の敷地の大半が私有地の借用となった。
県議会で議論となった疑惑
不要となった土地を県に売却した那覇交通であったが、この売却された元・国有地が県議会での議論となっている。
那覇交通が1977年に購入した国有地には、10年以内に「当初の用途とは異なる用途となる」かつ「転売する」場合には、国の定める基準に基づき算定された額を納付金として納めるという条件が設定されていた。ここでの当初の用途とは「公共バスの駐機場」すなわちバスの営業所として使用する条件であった。
那覇交通が国有地を購入したのが、1977年のことであり、県に売却したのが1982年のことで、約5年しか経過していない。そのため、那覇交通は国に4億6,539万6,000円の納付金を支払ったわけであるが、その納付金である約5億円を含めた金額で、県に土地を売ったのではないかという疑惑が議員から上がったようである。
この疑惑についてもう少し整理してみる。
那覇交通は、国から14,138.49m2の土地を5億3,000万円で購入した。だが購入した土地の大半である13,630.83m2を、4倍以上の21億9,000万円で県に売却している。地価上昇により、5億3,000万円の土地は16億9,000万円にまで価値があがっていたが、それでも県の購入額である約22億円とは、5億円の差がある。
この5億円は、前述した国に支払った納付金を上乗せしたものではないのか・・・という疑惑である。
これに対する真偽は不明だが、県の回答としては、本来は国が責任をもって行うべきオイルタンク等の撤去や補償を、土地購入者である那覇交通が実施し、それにかかった費用は4億5,047万1,000円であり、この費用も考慮すると、適切な価格であるとのことであった。
なお、営業所規模を縮小するにあたって、なぜ借地の契約を切るのではなく、自ら購入したいと要望を出した元・国有地を、納付金を払ってまでを売却したかは不明である。極力、内陸側の土地に営業所を設置したかったのか、資産を売却して営業所新設に必要となる資金を得たかったのか・・・。
地主より返却を求められ南風原町新川へ移転
1976年の移転当初は約20,000m2もあった三重城営業所は、1982年の県への土地売却により、半分以下の約6,000m2にまで縮小した。この半分以下になった土地で、最後まで営業が続けられた。ただ、前述の通りほぼすべてが借地であり、末期は地主から返還を求められていたようである。
2003年7月18日より、那覇交通から那覇バスへと引き継がれ、三重城営業所も引き継がれることになったが、土地の返還は継続して求められていたようで、最終的に2006年9月25日に南風原町新川の県有地を購入し、新設した新川営業所へと移転した。
ちなみに1976年に借用した際の、元・ブラックオイルターミナルの私有地の所有者は、最後の琉球国王である尚泰王の孫となる尚詮氏である$${^5}$$。尚詮氏は1990年に死去しているが、その後も親族に所有権が移っていた場合は、尚家から再三に渡って返還を求められていたということになる。
脚注
那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.42、97
那覇バスターミナルを子会社化 第一交通産業 再開発用地の一部も取得(2012年1月31日 ふくおか経済)
第67回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第4号 昭和46年11月13日(国会会議録検索システム)
沖縄県議会 1973年(昭和48年)定例会-12月14日-5号(沖縄県議会録検索システム)
沖縄問題等懇談会関係資料(1968年~1973年)p.7、p.5
首里-小禄直通も/那覇交通 あすからバス新路線(1983年1月5日 沖縄タイムス)
銀バス、市内路線を大幅再編/南風原町(新川)にも新営業所(1983年6月30日 沖縄タイムス)