見出し画像

移転を繰り返した那覇交通の本社

那覇バスの前身である那覇交通は、那覇市西に本社を置いていたが、この本社は1976年からの使用であり、6代目の本社である。
創業時の初代から6代目に至るまでの、那覇交通の本社の移転の歴史を調べてみた。


4年で3回移転した本社

公営バスを前身とした沖縄バスや、沖縄協同バスを前身とした琉球バスや東陽バスは、前身の事業者から土地や建物を引き継いで誕生したが、那覇交通は前身の事業者が存在せず、初代社長である宮城善兵氏がゼロから設立したバス会社である。そのため、規模の拡大に合わせて営業用地を確保していったため、設立してからの数年間の本社は移転を繰り返していたようであり、創立記念誌から把握できるだけでも、創業から5年以内に3回本社を移転している。

初代本社は那覇市美栄橋町1丁目

那覇交通創立30周年誌によると、1951年4月の会社設立時の本社は那覇市美栄橋町1丁目だったようである。

当社は協同、沖縄、首里バスに次いで第4番目の設立である。
1951年4月美栄橋町1丁目政府前に60坪の土地を借用14坪の本社を建築すると同時に、牧志に25坪の土地を借用して営業所を設けて事業を推進した。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.64

「美栄橋町」という住所は1971年11月に消滅しているが$${^1}$$、現在の「久茂地1丁目」「久茂地3丁目」「泉崎1丁目」に跨る地区であった$${^2}$$。また、戦前の1929年当時の地図$${^3}$$によると、現在の久美橋付近を境に南側が1丁目、北側が2丁目だったようである。
これらの情報を地図に落とすと以下になるが、この赤枠で囲んだエリアのどこかに初代本社があったと思われる。

美栄橋町1丁目のどこかに那覇交通の初代本社があった
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

【2024年6月2日追記】
初代本社は、現在の沖縄銀行本店のあたりにあったようだ。詳細は下記のリンク先を参照されたい。
(コメントにてご教授いただきました。ありがとうございました。)


なお初代本社の敷地は、1951年の創業当時は借地であったが、翌1952年4月に買収している。

事業拡張に伴って1952年1月5日宮木常任監査役就任、仝年4月第2回株払込完了、4月本社敷地を買収した。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.65

2代目本社は沖縄運輸と同居

2代目の本社への移転は、1952年7月11日のことである。社有地とした初代本社の敷地は別会社に貸し出し、代わりに沖縄運輸株式会社の本社ビルの2階に居候する形となった。
なお居候と書いたが、沖縄運輸の初代社長は宮城善兵氏$${^4}$$であり、いわばグループ会社である。

増車と相俟って営業施設も整備、1952年7月11日本社を沖運二階に移転しその後を新生産業に賃貸して営業資金に充てた。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.66

この沖縄運輸の本社は「那覇市美栄橋町1丁目16番$${^5}$$」であり、戦前の1929年当時の地図$${^3}$$によると、現在のパレットくもじのタクシー乗り場あたりである。

1960年当時の写真(下記のYotubeの1分57秒付近)には、現在のパレットくもじが立地している位置に「沖縄運輸KK」という看板が掲げられた2階建てのビルが写っており、これが沖縄運輸の本社ビルであり、那覇交通の2代目本社が入っていたビルであろう(後述するが、動画に映っている1960年時点では、那覇交通の本社は別の場所に移転済みである)。
なお同じビルには「相互タクシーKK」という看板もあるが、那覇交通が株式を保有している$${^6}$$ことから、これもグループ会社であろう。

3代目本社は那覇市楚辺

本社を沖縄運輸の2階に移転した那覇交通であったが、この本社も1年のみの使用であり、翌1953年7月30日には那覇市楚辺に移転している。

車両の増加に伴って駐車場の敷地確保に頭を痛めたが、1953年4月4日安里468番地150坪を借用して駐車、仝年4月15日那覇市4区14組に80坪を借用、或は1954年1月26日大原工業商事に駐車するなど土地を転々借用して営業を続けて来たが恒久的本社、工場、駐車場の必要にせまられたので、1953年7月20日楚辺東陽バス工場跡、本社工場建物47坪を25万円で譲り受け、土地300坪を借用して移転した。(尚1954年7月15日那覇陸運跡の工場、事務所77坪及土地を久保田氏より借用して工場の能率を一層向上せしめた。)

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.67
太字は筆者によるもの

那覇市楚辺は、現在の古波蔵交差点の北側のエリアである。ここのどこかに3代目本社が立地していたようである。

なお前述の記念誌によると、「楚辺東陽バス工場跡、本社工場建物47坪を25万円で譲り受け」との記述があるが、東陽バスの初代本社は那覇市壺屋であり、1954年12月5日まで使用されていることから、矛盾が生じている。どちらが正解かは不明であった。

4代目本社は那覇市壺川

3代目本社は、初代、2代目と比較すると長く使用されたが、それでも約2年間のみであり、1955年8月17日には那覇市壺川に移転した。4代目の本社である。

施設に於いても本社、工場が狭隘を感じていたので壺川に1,165.5坪を借用39坪の本社及84坪の工場を建設し1955年8月17日移転した。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.69~70

那覇市壺川には、東陽バスが1974年~2012年の約40年間本社を置いており、 壺川に本社を置くバス会社というと東陽バスのイメージが強いが、1955年10月当時の那覇交通が提出した認可書類$${^7}$$を見る限りは、確かにここ壺川に本社があったようだ。東陽バスが本社を設置するよりも20年近く前のことである。
4代目本社の位置を以下に示す。

この4代目本社は、現在の沖縄メディアモールビル(旧・那覇中央中央郵便局)の隣接地であり、現在は沖縄郵便運送株式会社の本社がある位置に立地していた。
4代目本社が立地していた1959年7月当時の航空写真を以下に示す。

4代目本社 1959/07/30撮影
(沖縄県公文書館所蔵の空中写真【写真番号:373-ON084030_094】を筆者が加工)

この4代目本社は、後述の通り1963年10月に那覇市西本町に移転しているが、同じ地に整備工場を併設しており、その工場は引き続き残ったため、1977年12月当時の航空写真でも壺川営業所(整備工場)として、土地と施設は存続した。

4代目本社跡地・壺川営業所(整備工場) 1977/12/13撮影
(国土地理院の空中写真【COK771-C59-7】を筆者が加工)

5代目本社は那覇市西本町

4代目本社の使用期間は約8年間であり、1963年10月21日には、那覇市西本町(現・那覇市西)に移転した。

1963年10月21日 本社を西本町ビルに移転した。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.77

5代目本社の位置を以下に示す。

5代目本社が立地していた1970年5月当時の航空写真を以下に示す。

5代目本社と西本町営業所 1970/05/12撮影
(国土地理院の空中写真【MOK701-C11-12】を筆者が加工)

道路を挟んで南側にもバスが多く停車している敷地があるが、これは那覇交通の西本町営業所であった。この西本町営業所は、5代目本社が設置されるよりも前の1961年1月28日に開設されている。

市外線のバスターミナル設置によって市内線でもその準備を進め西本町に787坪の土地を確保し1960年11月31日工事に着工していたところ翌1961年1月28日に竣工したので、営業所を移転、首里バスと共にダイヤを調整した。

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.74

6代目本社は那覇市西(三重城)

5代目本社は、4代目本社よりは長続きしたがそれでも約15年で移転することとなった。1976年(昭和51年)11月29日に那覇市西3丁目に移転している。なお、6代目本社は三重城営業所を併設していた。

昭和51年11月29日 本社三重城へ移転

那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.98

6代目本社が立地していた1977年12月当時の航空写真を以下に示す。

5代目本社・西本町営業所と6代目本社・三重城営業所 1977/12/13撮影
(国土地理院の空中写真【COK771-C58-5】を筆者が加工)

三重城営業所との併設ではあるが、5代目本社と比較すると、敷地面積はかなり拡大された。転々としてきた本社だが、この広大な土地でようやく腰を据えることとなった。
なお移転から数年後に、この敷地の半分以上は県に売却し縮小されたが、移転することなく那覇交通の最終日(2004年7月17日)を迎えることとなった。詳細な経緯については、三重城営業所の項目でまとめている。

本社跡地の現在は?

転々とした那覇交通の本社の跡地の現在についても、具体の位置が判明している2代目、4代目、5代目について調べてみた。

2代目本社跡地はニッポンレンタカーに売却

2代目本社があった土地は、那覇交通が撤退し、沖縄運輸のみとなった後も那覇交通の保有だったようだ。

白石社長はさらに、首里バスから合併の時引き継いだ首里大仲町の首里バス修理工場跡地や銀バスの土地だった久茂地町の土地(沖銀本店向かい、御成橋に面した角地約100坪)も、資金繰りのために処分したという。

これでいいかバス企業11/資産処分に組合反発 白石商会が土地ころがし(1983年7月25日)
太字は筆者によるもの

那覇交通は1974年9月10日に、社長を創業者の宮城善兵氏から、合資会社白石商会(現・株式会社白石)の代表であった白石武治氏に変更しており、白石グループの傘下となっている。白石グループ傘下となったのちに、2代目本社の土地は、同じグループ会社であるニッポンレンタカー沖縄株式会社(社長:白石武治氏)に売却されたようである。

久茂地町の土地は現在白石氏が社長をしているニッポンレンタカー沖縄が使っている。将来、モノレールの久茂地駅に当たる一等地。

これでいいかバス企業11/資産処分に組合反発 白石商会が土地ころがし(1983年7月25日)

なお、ニッポンレンタカー沖縄に売却された土地は、パレットくもじビルの再開発が実施される際も、ニッポンレンタカー沖縄が所有権を有していたためか、現在でもニッポンレンタカー県庁前営業所として、パレットくもじビル内に立地している。

4代目本社跡地は沖縄郵便逓送が使用

4代目本社の跡地は、前述の通り沖縄郵便逓送が使用している。
沖縄郵便逓送は、2代目本社で同居していた沖縄運輸を前身とした会社であり、沖縄運輸と同様に、那覇交通の創業者である宮城善兵氏が社長であった。

弊社の前身である沖縄運輸(株)は昭和24年2月創業、琉球郵政庁から郵便物運送委託を受け沖縄県本島全域の郵便輸送を担い、昭和47年5月15日の本土復帰を機会に郵便輸送を専業として昭和47年4月14日に沖縄郵便逓送(株)として設立致しました。

会社概要(沖縄郵便逓送株式会社Webサイト)

戦前からトラック、バス、タクシーと沖縄の運輸業に58年も携わり、私的歩みがそのまま沖縄の運輸史ともいえる沖縄県交通安全協会連合会会長の宮城善兵さん(78)
 (中略)
社長をしている中央郵便局隣の沖縄郵便逓送株式会社の社長室には交通関係の感謝状がズラリ。

運輸業に携わり58年/県交通安全協会連合会会長 宮城善兵さん(1983年7月25日 琉球新報)
太字は筆者によるもの

よって、2代目本社は、沖縄運輸から那覇交通に所有権が渡ったのに対し、4代目本社の敷地は、那覇交通から沖縄運輸に所有権が渡ったことになる。
沖縄運輸に渡った土地は、その後に設立された沖縄郵便逓送に所有権が引き継がれ、現在にまで至るのであろう。

5代目本社跡地は白石が使用

那覇市西本町にあった5代目本社は、タクシー会社である沖縄交通に売却されたのちに、白石グループの持ち株会社的に当たる白石商会に売却された。
現在はサンシャイン白石というマンションが立地しており、1階は部分は白石の本社が2024年6月現在も居住している。

組合側がまず批判のやり玉にあげているのが、那覇市西町1丁目19番地にある銀バス本社跡地。同地は57年3月4日に、細分化されていたのを合筆、面積は1212m2(約400坪)ある。現在白石商会の本社ビルが建っている。この土地は、昭和51年8月17日に、銀バスから沖縄交通に売却され、さらに53年9月26日に沖縄交通から白石商会へ転売されている。

これでいいかバス企業11/資産処分に組合反発 白石商会が土地ころがし(1983年7月25日)

なお本社の南側に立地していた西本町営業所も売却されており、現在はマンションが立地している。

また、同地の向かいにあった(西町1丁目5-4)旧銀バスターミナルの跡地403m2の土地も、昭和54年2月に株式会社琉商へ売買されている。

これでいいかバス企業11/資産処分に組合反発 白石商会が土地ころがし(1983年7月25日)

脚注

  1. 1971年(昭和46年)11月 琉球政府の地番が変更となる(沖縄県公文書館Webサイト)

  2. ~消えた町名~(那覇市Webサイト)

  3. グダグダ(β) 美栄橋町(昭和4)

  4. 自由企業制度とトラック事業の展開-米軍統治下の沖縄を事例に-/商学研究論集(2023年2月 玉城優希)p.72

  5. 資金需要調査票 1963年 卸小売業 運輸通信業(1963年11月~1964年4月 琉球政府計画局経済企画課)p.153

  6. 法人企業業務報告書 運輸・通信業 1962年度(1962年 琉球政府計画局経済企画課)p.49

  7. バス関係書類綴(1970年 琉球政府工務交通局陸運課)p.27


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?