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黒糖の歴史を、語らせてください。


挨拶

こんにちは、沖縄県黒砂糖協同組合 編集部のNです。
あっという間に4月も中旬ですね。世の中的にはゴールデンウイークの背中も見え始め、ワクワクが募る時期でしょうか。かくいうNも、大型連休が楽しみでしかたありません。
それに「5月」はなんといっても、黒糖にとって、とっても大切な月でもあります。

ジャジャン!! 来る5月10日は「黒糖の日」、なのです!

特に今年は、黒糖の製造方法が沖縄に伝わって400年を記念するメモリアルイヤー。沖縄黒糖のことを深く知っていただくためにも、今回は沖縄黒糖の「歴史」について、簡単にご紹介したいと思います。

琉球に砂糖づくりの技術をもたらした人物

「砂糖」という甘味料が、日本に伝来したのは奈良時代。中国からもたらされました。江戸時代に入るちょっと手前(安土桃山時代あたり)の16世紀まで、日本にとって砂糖は“つくる”ものではなく、“輸入する”もの。ゆえに砂糖は、とても高価な代物でした。

そんな時代に、日本で砂糖がつくられるようになり、琉球(当時はまだ沖縄ではなく琉球でした)に製糖方法が伝わった背景には、2人の人物が大きくかかわっています。

1人目が、鹿児島県・奄美大島の直 川智(すなお・かわち)。時代は1600年初期、直は琉球へ向かう途中に台風に遭って漂流し、中国にたどり着きます。中国でさとうきびの栽培と砂糖の製造技術に触れた直は、なんと、その技術をこっそりと学んだのです。そして翌年、奄美大島に帰還する際に製糖技術を持ち帰り、奄美で黒糖製造を開始しました。

時を同じくして奄美の地に降り立った、琉球の儀間真常(ぎま・しんじょう)が2人目のキーマン。この儀間により、沖縄で黒糖が製造されることになったのです。

1609年に琉球は鹿児島・島津家に侵略され、儀間は尚寧王とともに連行されました。このとき儀間は、奄美でさとうきびの栽培と黒糖の製造に触れ、学んだのですね。そして、さらなる製糖技術を学ぶために、1623年には琉球の自身の村の者を中国福建に派遣しました。

こうして新たな製造方法を得て、琉球での砂糖製造は活性化していきます。琉球王府は島津家に借金があったのですが、その借金返済に砂糖の専売で得た利益を充てることを条件に、「砂糖の専売を実施していいよ」と認められました。

でも、砂糖が専売できるようになったことで、琉球の農家はさとうきび栽培・砂糖製造に傾倒したのでしょうか。琉球王府は、1692年にさとうきびを百姓地に植え付けることを禁止しました。生産量を調整することで、農民の食糧確保と黒糖市場の価格下落の防止を狙ったんですね。中央の取り決めが必要なほどって、当時のさとうきび栽培への集中っぷりがわかりますよね。

世の中の流れをくんでチャレンジした時代

琉球王府にとって、砂糖の専売は大切な資源となりました。そのため、18世紀前半には、米の代わりに黒糖を薩摩藩に収める(貢糖)ようになります。これは明治時代に入り、廃藩置県が行われた後にもずっと続きました。江戸から明治に変遷して、幕末からの貨幣価値の変動や租税の納入など世の中は大きく動いたのに、貢糖制度は変わらなかったのです。当然、農民は苦境に立たされることとなります。沖縄は日本政府から資金を借りて、糖業の改良や農民の救済を図ったり、約200年間続いたさとうきびの作付け制限が撤廃されたり、なんとか困難を打破しようと試みます。

しかし、日清戦争が終わる頃、財政の需要が増加し、その一環として砂糖が目を付けられ「砂糖消費税法」が施行されました。これは痛手だった……。導入後、那覇の砂糖相場は落ち込んでしまい、農家の収入減少につながり、ひいては沖縄の糖業自体が大ピンチに陥ってしまいました。

これではいかんと、「これまでの製糖方法を変えて改良してみるから、助成をお願い!」と、1906年に政府に申請します。これまでは、不純物を取り除いた糖汁を煮詰めて結晶化し、糖蜜成分を含んだままの砂糖(含蜜糖)をつくっていたけど、これからは糖蜜成分を分離して(分蜜糖)砂糖をつくろうとしたんですね。

これをきっかけに、1909年に沖縄で初めて分蜜糖工場がつくられました。工場が設立されることで、これまでは自家製糖するしか利用方法がなかったさとうきびが、工場で求められるようになった。工場は、さとうきびの利用する手立てを農民に示したのです。

県立糖業試験場を設置し、技術者の育成やさとうきび新品種の普及、栽培改善を行いつつ、1912~1926年の大正時代は、大型分蜜糖工場が次々に新設されました。こうして分蜜糖業の振興が図られましたが、分蜜工場は原料の確保ができず不振にあえぎます。分蜜糖が沖縄の全産糖量の3割を超えることはなく、結果、含蜜糖を中心に製造されることとなります。

幾多の危機を乗り越え、8島での生産が定着

その後、沖縄の糖業は順風だったわけではありません。第二次世界大戦により、製糖施設やさとうきび畑は壊滅状態となったのです。さらに1946年には、深刻な食糧不足となり、アメリカ軍政府の指示で米、麦類、さつまいもなどの食糧の生産が優先されます。そうするとさとうきび畑の償却が進み、さとうきび畑が全滅の危機に瀕する事態となりました。

この状況を何とかしなければ……と、糖業復興を願う人たちは、さとうきびの苗を確保したり、琉球列島米国民政府に対して意見書を出したりして、徐々に復興の道を歩み始めます。

その第一歩は、1948年、アメリカ軍政府が南大東島でさとうきび栽培を許可したこと。戦後初めて沖縄においてさとうきび生産に取り組む体制が確立され、分蜜糖工場のさきがけとして「大東製糖株式会社」が設立されました。その後、アメリカ軍政府は、沖縄における糖業のあり方について糖業関係者と意見を交わして糖業復興の具現化を図り、沖縄県本島南部の「琉球製糖株式会社」の設立。続いて、含蜜糖工場、分蜜糖工場が県内各地に建設されました。

「糖業を盛り上げていくぞ!」という機運の中、1963年、日本政府により砂糖貿易自由化が実施されることになりました。これは、沖縄糖業にとって大打撃となりました。沖縄は非常に厳しい状況に置かれる中、日本政府はこれを救済すべく、翌年に第一次糖業振興5か年計画を策定。1965年には沖縄産糖の育成施策の推進が図られることとなりました。

また、含蜜糖の生産の保護を目指し、1971年には沖縄振興開発特別措置法が制定され、含蜜糖については消費者価格が生産者価格よりも低くなった場合、その差額を国家が負担する制度(価格差補給金)を実施しました。

沖縄糖業は、幾多の危機をかいくぐり、2002年には総農家戸数の71%がさとうきびを栽培するように。2009年には、含蜜糖工場は伊平屋島、粟国島、多良間島、小浜島、西表島、波照間島、与那国島の7島において、年間8,000トンの黒糖生産体制が定着するに至りました。2011年には伊江島にも含蜜糖工場が新設され、現在、8工場体制で沖縄黒糖は生産されています。

400年間、憂き目にあいながらも現在まで製造され続け、製糖量を増やしている黒糖。今年はみなさんに、黒糖の歴史に思いを馳せつつ、黒糖を味わってみていただけたら嬉しいです。


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