「ニイナとオジィの戦世」
今日は戦後75年の敗戦記念日。
観光地沖縄にとってはありえない、怖いほどひっそりとした8月15日を迎えている。
コロナで75年前と似た非常時を、今、私たちは体験させられているようだ。
友人ともなかなか会えず、行きたい場所にも行けず、当たり前の日常はとっくに消え、マスクをつけていなければ非国民扱い。戦時中はもっともっと生き苦しかったに違いないが、それに似た空気をコロナが運んできている。
そして、今年は75年前と同じ。私たちも首里城のない夏を過ごしている!!
しんと静まり返った首里城公園で、75年前をおもう。
これは正殿を飾っていた龍たちの残骸。なんて痛々しいんだ。
だけど、これにちゃんと案内板を付けて披露しているわけだから、沖縄はやっぱり逞しいと思う。戦を生き抜き、アメリカに支配され、日本に徹底的に蹂躙されてきたこの75年が培った逞しさなのかもしれない。
これは龍のとなりにできている建物の内部。パッと見なんだかわからないけれど、実はこれこそが世界遺産で、琉球王朝450年の歴史を物語る、約600年前の首里城遺構。
そして同時に沖縄戦の記憶を持つ場所でもある。
このゴツゴツに触れたら75年前にタイムスリップしてしまいそう。
75年前の沖縄戦では、首里城の下に日本軍司令部が陣地を築いていたがために、首里城は攻撃され、三日三晩燃えたそうだが、今回の首里城火災については長い時間をかけて調査したにも関わらず原因不明という。この時代に原因がわからないって…絶対おかしい。ありえない。首里城は自ら燃えたのかもしれない…
首里城は燃えてまで、私たちに伝えたかったことがあるのだ。
それは第32軍司令部壕の保存・公開。
首里城火災をきっかけに、首里城地下の戦争遺跡を負の世界遺産として公開し、遺して欲しいという戦争体験者の声がようやく人々に届いたのだ。
光の首里城正殿、闇の戦争遺跡、その二つをよみらせてこそ、本当の首里城再建になるのだと思う。
<舞台「ニイナとオジィの戦世」 写真:垣花みゆき>
私が10年前に書いた「ニイナとオジィの戦世」は、この写真の子どもたちの物語だ。彼らは首里城下の壕を掘る勤労奉仕をさせられていた。その後、皆戦死した。
<首里 一中健児の塔がある養秀会館・資料室>
沖縄では男子学生が14歳から戦争に取られたと、オフィシャルには語られているが、ここへ行くとそうでないことがわかる。
もっと幼い子が戦場へ向かわされ、殺されている。
学徒兵の遺髪と爪。どんな想いで切ったのだろう。疎開を選ぶこともできたのに「戦争へ行かないと卒業できなくなる」という噂があり、戦場を選んだ子もたくさんいる。
養秀会館の展示室にあるこの遺髪と爪の生々しさに衝撃を受け、私は「ニイナとオジィの戦世」にこんなシーンを加えた。
日本兵「米軍を無抵抗でこの沖縄に上陸させたのは他でもない神国日本を守るためである。玉砕を覚悟の上、持久戦に持ち込むのだ!いよいよ国にご奉公するときが来た!」
学徒「はい!」
日本兵「遺書と遺髪は学校長に提出するように」
比嘉「人生十六か」
忠昭「誰か書くもの持ってない?」
比嘉「ほら」(ペンを渡す)
亀吉「遺髪って、髪の毛のことか?」
繁「坊主だのにどうやって切るんだ?」
比嘉「カミソリぐゎでこうやって」
忠昭「危ない!手を切るよ!」
亀吉「(笑いながら)ハゲができた!」
全員「(笑う)」
亀吉「(独白)人生十六。ほんとに人生十六なのか?俺たち、ほんとに死んじゃうのか?」
今、コロナで子どもたちは学校へも行けず、外で遊ぼうものなら非難され、誰かに監視されているような、戦時下みたいな緊張感あふれる毎日を送っている。
これはある意味、75年前の沖縄戦のことを、自分ごととして捉えられる稀なるチャンスなのかもしれない。
今の沖縄は戦前の沖縄とは全く違う。この島は沖縄戦によって大きく変えられてしまった。基地をつくられ、基地建設賛成反対で県民同士が対立させられている。そして沖縄における観光はそもそも内地からの慰霊ツアーがはじまりで、それが今や1000万人の観光客が押し寄せるハワイを抜くリゾート・アイランドにまで成長した。そう考えると沖縄にとって戦争は非常に重要なもので、戦争を無視してこの先の未来を語り、良くしてゆくことはできないと思うのだ。
それは首里城にも言えることだ。建物だけ作り直しても意味がないと、首里城は燃えて教えてくれた。
本日敗戦の日は、75年間封じ込められてきた壕に光を送り、沖縄戦で犠牲となった24万人の人々へ祈りを捧げる一日としたい。
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