No.1329 涙の色ぞゆかしき
清少納言がお仕えした皇后定子は、第2皇女・媄子(びし)内親王を出産した直後に産褥によって崩御されました。長保2年(1000年)12月16日(1001年1月13日)早朝のことでした。24歳とも25歳とも言われます。今から1000年も前のお話です。
その皇后定子の一条天皇への哀切な歌が3首残されていたことは、1087年に成立した『後拾遺和歌集』巻十・哀傷歌の詞書で知られます。
一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳(とばり)の帷(か
たびら)の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご
覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に
536 夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
537 知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな
(一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付
けられていた手紙を見つけたところ、天皇にも御見せくださいとい
うように、歌が3首書き付けられていた、その中に
536 夜通しお約束したことをお忘れでなければ、私の事を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色を知りたいと存じます
537 誰も知る人のいない現生との別れ路に、今はもうこれで、と心細い気持ちで急ぎ出立することです)
その3首目を、『栄花物語』(1107年以前の成立)巻7「とりべ野」で知りました。『栄花物語全注釈』二(松村博司著、角川書店、1971年、P234~P235)参照。
「煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ」
(煙とも雲ともならない我が身ですが草の葉の露を我が身と思って下さい)
がそれです。定子が土葬を望んだということが「煙とも雲ともならぬ身」の言葉に見えるようです。
興味深いことに藤原定家撰『百人秀歌』(1235年以前?)にこの歌は採られています。
53「夜もすがら契りしことを忘れずば恋ひむ涙の色ぞゆかしき」
しかし、『百人一首』の編者の意図にそぐわなかったのか、定子の近親者の政治的不祥事等も影響してか、この歌は採録されませんでした。「涙の色ぞゆかしき」は印象的ですが。
この定子の歌が几帳の紐に結ばれていたことは、1252年の成立とされる『十訓抄』上・一「人に恵みを施すべき事」ノ十一にも紹介されています。
「人の有様をも、これらにて心得(こころう)べし。その振舞、心ばせ、優なるためし。
定子皇后は一条院の后なり。御父の中関白の御ために、御仏事を行はれけり。こと果てて出づるほどに、長月十日あまりのころなりければ、秋風身にしみて、御前の前栽に鳴く虫の声、弱りゆく気色なる折しも、斉信中将、蔵人頭にておはしけるが、「金谷に花酔地、花は春ごとに匂ひて主(あるじ)かへらず」と詠じたりければ、聞く人、涙を拭ひけり。后、ことにふれて情おはしけるに、いかばかりあはれに聞かせ給ひけむ。
この后のなやみ、重くならせ給ひけるころ、
夜とともに契りしことを忘ずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
と書きて、几帳の紐に結び付け給ひけるを、失せ給ひて、院、御覧じつけたりける。御心中、さこそ忍びがたく思えさせ給ひけめ。」
(人の様子や性格といったものも、詩や和歌から推し量ることができる。その振舞や心遣いが上品でみごとな例。
定子皇后は、一条院の皇后であった。御父君の中の関白藤原道隆公のために御法要を執り行われ、それが終わって退出なさる時、おりしも九月十日過ぎの頃だったので、秋風は冷たく身に沁み、庭の植え込みに鳴く虫の声も次第に弱っていくもの悲しい季節だったが、藤原斉信中将は、蔵人頭でいらしたが「金谷園の時は、花の美しさに皆が酔った。花は春ごとに咲きこぼれるが、それを愛した主人は二度と戻らない。」と詠んだので、聴く人々は涙を拭った。定子皇后は、何ごとにも心の細やかな方だったから、この吟誦をどんなに悲しい気持ちで聴かれただろうか。
この后が病が重くなられた時、
「毎夜のように約束下さったことを忘れないなら、私を思って下さるあなたの涙を、私はこの目で見たいのです。」
と書いて、几帳の紐に結び付けておかれたが、后がお亡くなりあそばしてから院が見つけられ、ご覧になられたということだ。その時の院の御心の内は、どんなにか悲しく苦しく思われた事だろうか。)
『新編日本古典文学全集51 十訓抄』(浅見和彦校注、小学館、1997年)P45~P46参照
皇后定子の250年も後の説話集です。今以上に、感動的な話として伝わっていたと思われます。心細く不安至極の定子が、いかに一条天皇を慕っていたか、その思いがよく伝わって来る歌だと思います。私には、皇后定子の涙の色が、ゆかしく思われるのです。
※画像は、クリエイター・YUKARIさんの「几帳はなかなか画像が無いのでどうぞ☆」の1葉をかたじけなくしました。皇后定子は、この紐に歌を添えたのでしょうか。お礼を申し上げます。