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No.1402 忘れられない時間


高校時代に「日常」を「衝撃的な非日常」だと思った日がありました。
 
作家・三島由紀夫が、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺したのは1970年(昭和45年)11月25日でした。憲法第9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)破棄の為に自衛隊員に決起(クーデター)を呼びかけた後に自決した事件です。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも参加したので「三島事件」とも「楯の会事件」とも呼ばれています。
 
この「楯」は、『万葉集』巻20の4373番の防人歌に拠ったそうです。
「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜(しこ)のみ楯と 出で立つ我は」
(今日からは、自分のことなど顧みずに、大君の、強い楯として、私は出立するぞ)

歌の作者は、火長今奉部与曾布(かちょういままつりべのよそふ)なる男性で、755年(天平勝宝7年)に下野(しもつけ=栃木県)から筑紫(つくし=九州北部)に派遣された防人です。大友家持に兵役の心構えを聞かれて(?)詠んだ歌と言いますが、天皇のために尽くそうという気概に溢れた歌です。「火長」は「兵士十人の長」のこと、「今奉部」の意味は未詳でした。この歌から「楯の会」(1968年)と命名されました。与曾布の歌から1213年も後のことでした。
 
私は高校2年生でした。その1970年(昭和45年)11月25日の昼休みだったか、終礼間際だったか、校内に「三島由紀夫が割腹自殺した」という情報が流れました。一瞬、クラスが騒然となりました。
「今の世に、本当に割腹自殺したのか?」
ごく普通で当たり前の「日常」を過ごしていた私は、とんでもない「非日常」が同じ時間に市ヶ谷の自衛隊駐屯地で繰り広げられていたことを知りました。天才作家が45歳で隠世したのです。しかし、教室はすぐに落ち着きを取り戻しました。一人の女生徒を除いて…。
 
Mさんは、いつも机について静かに読書をしていました。我々は、進学のことが気になって齷齪し、ガリガリやっているクチでしたが、彼女は、もちろん勉強もしましたが、進学に強い関心は無いといったふうでした。小説ばかり読んでいる文学少女でした。
 
色白で清潔な透明感があって、しぐさや笑顔が上品で、静かな語り口調は、「いとやんごとなき」の古語が、そのまま目の前に佇んでいる様でした。瞳の周りが、赤ん坊の様に美しい薄いブルー色なので、そのままその眼の中に飛び込みたい気持ちになりました。じっと見つめながら話をされると、とろけてしまいそうになる自分を耐えるのが大変でした。
 
その彼女が、三島由紀夫の訃を知り、教室から突然いなくなりました。
「おい、Mさんは、どうした?どこへ行った?」
心配した友だちが校舎内を探したら、図書室で泣き続けていたそうです。大好きな作家の一人だったのでしょう。その人の死を、その才能を愛しむ女生徒が、あんな田舎にもいたという事、そして、そのことに驚きをもって見つめた私でした。世界観がまるで違う彼女に、むしろ畏れを抱きました。私の、忘れられない時間でした。
 
その1970年11月25日(水曜日)の天気は、
    最高   最低 天気
東京 13.4℃ 4.7℃  晴
日田 15.4℃ 0.3℃  晴
でした。54年前のあの日、東京と青空が繋がっていました。

1968年(昭和43年)に日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成は、三島由紀夫の事件から1年5か月後の1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺しました。私は、大学に進学したばかりの頃でしたが、思いも寄らぬ驚天動地の大事件を阿佐ヶ谷の下宿の新聞で知りました。その時、人のために泣けるMさんの泣き顔を思い出していました。

※画像は、クリエイター・とさおしタロウさんの鹿苑寺金閣の鳳凰の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。伝説上の聖なる鳥は、平和な世に姿を現すと聞いたことがあります。