No.798 人間の器とは?
今泉忠義(1900年~1976年)氏は、国語学者であり國學院大學の教授・名誉教授となられた方です。『日葡辞書』や『源氏物語』の研究者として有名ですが、私は、今泉忠義編著『ESOPONO FABVLAS』(『天草本 伊曾保物語』、桜楓社刊、1974年重版)をよく利用させていただいています。イソップ物語の翻訳本です。
今泉先生のエピソードには、すさまじいものがあります。先生の講義は、単位取得が大変難しかったそうです。成績で「優」が取れることは「奇跡」とされていたくらいです。試験の結果を聞きに行った生徒が「合格!」と言われただけで感涙にむせんだといいます。「今泉シンドローム」でしょうか?後々、学生たちは厳しく鍛えられたことに自信と誇りを持つようになったといいますから、むしろ、「今泉効果」だったのでしょう。
本日の種友明先生のお話は、大分合同新聞「灯」欄に載せられた「私にはできない」(1989年10月20日)と題されたコラムです。誰の心にも通じる今泉先生とのやり取りと、景色の大きな人物であったことが書かれています。
「『鬼の今忠』亡き師のあだ名で、今泉忠義の略称から出ている。鬼とは文学科生必修の『国語学演習』の試験の難しさに由来する。私は文学部の助手に採用されて、国語学第一演習室勤務となった時、内側から見た師の人格が学生のうわさとは余りにもかけ離れていることを知った。学問の前にはまさに公平、情実ということを厳しく拒絶されたが、実に温かく奥が深かった。
某日、師を囲むある会の集まりの世話を命じられた。古いお弟子たちとの気楽な食事の会だったが、世話役の私の都合を聞かれて八月十日の夕べと決定、通知の発送も済んで夏休みに入った。私は助手一年目緊張の連続で、休みになってほっと自分を取り戻していた。
八月の末、別の会合の折りに先の会の先輩の一人から「君は大物だよ」と肩をたたかれた。『はあ?』『十日はどうしたの』『はあ?』私は完全に忘れていた。あきれはてた先輩が当日の模様を語った。みるみる全身の血の気がひいていくのをはっきりと感じた。当時、私のアパートに電話もなく師は二時間以上も、『いや、何かあったのでしょう。もう少し待ってください。』と何事もないかのように待ち続けられたという。そして、結局うちそろって出掛けられてからも、私を終始かばっておられたそうだ。
その事件の後、何度もお会いしているのに、師は『あの日はどうしたの』と聞くことはおろか、私に感付かせる素振りさえされなかった。それ故にすっとんでおわびに行った私の申し訳なさと恥ずかしさからくる自己嫌悪は、ほとんど耐え難いほどだった。『いやいや、何かあったのだろうと思ってましたよ』とにこにこされた師は、それきりそれを話題にされることもなかった。
人間の器の違い、それを思わないではいられなかった。」
このコラムを読みながら、自分の耳たぶが赤くなるのが分かりました。人の失敗をなじったり、他人に言いふらしたり、いつまでも根に持ったりすることはあっても、黙して語らず、いや、気にもかけないというのは、なかなかできることではありません。しかし、その思いを心に留めておくことは出来そうです。背筋が伸ばされたエピソードでした。
「大きいことは、小さいことに。
小さいことは、なかったことに。」
どこのどなたの言葉かは存じませんが、どこで耳にした言葉かもわからないのですが。なぜか思い出されて来てしまうのです。
※画像は、クリエイター・みれのスクラップさんの、タイトル「Nijijourneyにすっぱい葡萄を描いてもらった」をかたじけなくしました。イソップ寓話の「キツネとブドウ」、見事な絵です。画面全体をお見せできず、申し訳ありません。お詫びとお礼を申します。