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No.964 ドラマを読むような古典のお話

「おにぎり(おむすび)とたくあん」は、乙で味な関係であり、最強の組み合わせ、べストカップル(古いか?)だと思いますが、いかがでしょう?
 
安土桃山時代から江戸時代初期の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう、1573年~1646年)は、あの香の物「たくあん」の生みの親のように言われています。
 
昨日、『耳袋』(みみぶくろ、東洋文庫207 平凡社)を拾い読みしました。『耳袋』(『耳嚢』)とは、江戸時代中期から後期に生きた勘定奉行の根岸鎮衛(しずもり/やすもり 1737年~1815年)が約30年にわたって人々から聞き集めたものを書きためた雑話集だそうです。読んでいたら「沢庵漬の事」という面白い話が出てきました。以下は、その記事です。

巻の四「沢庵漬の事」
公事(くじ)によりて品川東海寺へ到り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、かの老僧、禅師の事、物語のついでに、世に沢庵漬と申す事は、東海寺にては貯(たくわ)え漬と唱え来り候よし。大猷院様(将軍家光)品川御成りにて、東海寺にて御膳召上がられ候節、何ぞ珍しき物献じ候よう御好みの折から、「禅刹何も珍物これなく、たくわえ漬の香物あり」とて香物を沢庵より献じければ、「貯え漬にてはなし。沢庵漬なり」との上意にて、殊のほか御賞味ありしゆえ、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を、青貝にて粗末なる塗りの重箱に入れて持参相納めけるよし。「今に安左衛門が家に、右重箱は重宝として所持せし」と、かの老僧のかたりはべる。

出典:『耳袋』(巻の四、P288、東洋文庫207、平凡社、昭和47年3月、初版第1刷)

荒っぽい訳ですが、してみます。
「公務で品川にある東海寺を訪問することがあり、老僧の案内で、沢庵禪師のお墓の辺りを歩き回りましたが、その時に、老僧が、禅師の物語をして下さった中のお話に、世にいう沢庵漬けと申すものは、東海寺では貯え漬けと言われてきたものだといいます。大猷院(徳川家光)様が品川にご来訪の折、東海寺で御食事を召し上がられましたときに、何か珍しきものを献ぜよとのご注文がありましたが、『禅寺なので何一つ珍しいものはありませんが、貯え漬けの香の物ならございます』と言って、香の物を沢庵自ら差し上げたところ、『貯え漬けではないな、沢庵漬けじゃな』との思し召しで、格別のご賞味であられたので、現在、東海寺代官役であられる橋本安左衛門の当時の御先祖が、それ以後、毎日、御城の厨房方に、この香の物を、粗末な貝細工をほどこした漆塗りの重箱に入れて持参し、お納め申し上げていたということです。『今も、安左衛門家には、大事な家宝として、伝えられています』と、その老僧が話しました。」

ね、面白いでしょ?
「沢庵漬け」の名前の由来には諸説あるようです。東海寺では、元々「貯え漬け」と呼んでいたそうですが、沢庵和尚が三代将軍家光公に召しあがってもらったところ「沢庵漬けじゃろ!」と鶴の一言で呼び名が決まったような印象です。家光公が駄洒落好き(多分、四十代)だということよりも、沢庵和尚が差し出した香の物が賞味に値する出来だったので、感動され、創作人の名をあてて高評価したということになるのでしょう。


沢庵和尚は、なかなか気骨のある人生を送られたようですが、1639年(寛永16年)に大和の国柳生の庄から江戸に戻ると、徳川家光(1604年~1651年)によって創建された萬松山東海寺の初代住職として入りました。時に67歳だったそうです。したがって、「たくあん」のくだりは、家光公存命中の1639年~1651年の間のお話ということでしょう。

いっぽう、この「沢庵漬の事」が書かれた『耳袋』は、1814年(文化11年)の完成ですから150年以上も後の事です。人づてであることもエピソードの域を出ないのだと思うと、いささか信ぴょう性に欠けるうらみなしとしません。でも、私は、この話が好きです。

さて、その沢庵和尚は、東海寺の住職となって7年後の1646年に享年74で没しました。死に際し、弟子に辞世の偈を求められ、「夢」の一文字を書き、筆を投げたと伝わります。まさドラマの名シーンでも見る思いがしました。


※画像は、クリエイター・Yurianさんの、タイトル「公園で」の1葉をかたじけなくしました。「公園の古民家に大根が干してありました。」の説明がありました。やがて美味しい沢庵漬けに変身するのでしょう。瑞々しさが見て取れます。お礼申し上げます。