No.613 名を言ひし初めの人の心
「八月や六日九日十五日」
の句について、畏友からメールをいただきました。日本人にとって忘れられない、また、忘れてはならない日を詠んだ句です。
6日は、広島市への原爆投下が行われた日
9日は、長崎市への原爆投下が行われた日
15日は、終戦を迎えた日
であり、戦争を忘れないこと、戦争をしないこと、鎮魂の祈りを捧げること、平和を希求することのほか、様々な思いを受け止めてくれる8月の代名詞のような歌だと思います。
元法務省の職員だった小林良作(千葉市)さんは、俳句雑誌『鴻』(松戸市)に「八月や六日九日十五日」と投句した際に、既に先行作品がある事を知りました。不思議なこともあるものです。この経験が、その初めの人を調べる契機になったと言います。確かに、独自性よりも普遍性のある句です。
2017年8月15日付の「産経新聞」のコラム「産経抄」には、
「(略)▼最初の作者は誰だろう。調べを進めると、広島県尾道市の医師、故諫見(いさみ)勝則さんに行き着いた。長崎県諫早市出身の諫見さんは、海軍兵学校時代に江田島から広島の原爆のきのこ雲を目撃している。戦後、長崎医科大学を出て、広島、長崎の被爆者の診察も行った。その諫見さんが平成4年の夏、診察室のカレンダーを見ながら詠んだ作品が最初、との結論を得た。(略)」
とありました。しかし、小林さんは、更に調査を進め、新たな手掛かりを得たのです。
2021年8月9日付の「西日本新聞」のコラム「春秋」には、
「(略)▼被爆者治療にも携わった長崎県諫早市出身の医師が、1992年に投句したものが初、との結末だった。その後、“俳句探偵”小林さんの元に新たな情報が届いた▼さらに16年前に詠んだ人がいた。小森白芒子(本名・政治)さん。長く川崎市に暮らしたが、小林さんの調査では「福岡県出身」という▼その続きを追い、県内の図書館で唯一、句集を所蔵する田川市の館を訪ねた。句集や隣の川崎町史にも名前を見つけた。明治生まれ、旧制田川中から旧制福岡高へ。檀一雄らと短歌会を主宰し、東大では武田泰淳と同人誌を編んだ文人だった。句集には敗戦を詠んだ〈国破れ日輪焦土を灼きつける〉もあった。NHKに勤め、終戦前は中国向け放送に従事した(略)」
とありました。1976年(昭和51年)に、小森白芒子によって詠まれていました。
俳句の世界では、この「八月や六日九日十五日」は、類似句が多数存在するために「詠み人しらず」とされることもあるそうですが、調査を続けてきた小林さんには特別な思いがあるようでした。
「(『八月や…』の句は)少なくとも名句じゃないんです。でも心に残る句であることは間違いない」
「詠み人不詳ではなく、詠み人多数の句であり、この先も詠み継がれていくと確信している」
ともコラム「春秋」の中で述べていました。
「詠み人不詳」ではなく「詠み人多数」とするところに、日本人が背負い共有してきた思いの程をうかがえる気がします。初めの人を探し当てるのは、容易な技ではないでしょう。それを越えて、埋もれていた人の名前を掘り起こした小林良作と言う人物に心からの敬意をおぼえました。「八月や六日九日十五日」の句は、新たな輝きを放ち始めたのです。
くさかげの
なもなきはなに
なをいひし
はじめのひとの
こころをぞおもふ
伊東静雄(詩人)