No.907 己を保ち、不自由を克服した男
塙 保己一(はなわ ほきいち)は、江戸時代後期の盲目の国語学者です。生年の1746年が丙寅だったことから、幼名は寅之助と命名されました。強そうな名前です。
しかし、5歳の時に罹った病気がもとで視力が弱り、7歳の春には失明したと言います。十代で江戸に出て、検校(けんぎょう)修行をしました。検校とは「検(あらた)め、校(かんがえ)る」という意味だそうで、盲官(盲人の役職)の最高位にあたるそうです。
約3年間、盲人として按摩や鍼や音曲などの修業に費やしますが、生来の不器用さがたたってか、一向に上達しません。師事していた雨富検校に学問への強い思いを告げると、
「3年間経っても見込みが立たなければ、国元へ帰す」
という条件付きで、学問への道を認められたと言います。
盲目の保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問したそうです。1769年(明和6年)、国学者の賀茂真淵の門に入り、6年後には、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めました。故郷が武蔵国(埼玉県)児玉郡保木野村だったので、その読みを当てたのでしょう。己を保つただ一人の男、強い心意気を感じます。
1783年(天明3年)に検校となった時は37歳でした。10年後の1793年(寛政5年)、幕府の援助を得て、番町(現、東京都千代田区)に古典研究の公の機関として「和学講談所」を設立しました。そして、ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集したそうです。彼は町で評判でした。
「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」
「番町で目明き盲に道を聞き」
「番町の番町知らず」などと言って、高低差のある土地に作った町は地図が飛ぶように売れたとも言われるくらい不案内の土地柄だったようです。しかし、「番町で目明き盲に道を聞き」とは、むしろ「学問の道」の方で、講談所のある番町で、目の不自由な人から学問を教わることを揶揄した句でしょう。皮肉も敬意も感じられる歌です。
保己一が74歳の時の1819年(文政2年)に『群書類従』666冊を完成させました。三十代で決心してから41年後のことだったそうです。『群書類従』とは、古代から近世末期まで、歴史・文学・宗教・言語・風俗・美術・音楽・遊芸・教育・道徳・法律・政治・経済・社会・その他各分野にわたる全書目を分類収録した一大叢書です。しかも、流布本を避けて善本を精撰した貴重な資料集と言われています。中国・清朝の乾隆帝がまとめさせた四庫全書という漢籍叢書の日本版ともいえる、膨大な作業でした。
その塙保己一について、高校時代に日本史の後藤先生が面白い話をしてくれました。
「和学講談所で講義の最中に、風が吹いてロウソクの火が消えたんですね。ところが、保己一先生は、それとは知らないものだから講義をどんどん続けます。弟子たちが慌てて『先生、ちょっと待ってください。明かりが消えました。』と言ったところ、保己一が、『目あきは、不自由なものじゃのう。』と言ったのだとか…。」
今から52年も前の授業の一コマですが、クラスの爆笑と共に覚えている歴史ネタです。恩師は、今もご健在です。
※画像は、クリエイター・わたなべ - 渡辺 健一郎 // VOICE PHOTOGRAPH OFFICEさんの、タイトル「江戸水上交通の模型」の1葉をかたじけなくしました。江戸東京博物館の資料のようですが、この時代に塙保己一先生の姿があったのでしょう。お礼申し上げます。